Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

30 (U162.476)

彼は引き返す、自分を、古傷を舐める老犬を、

第30投。162ページ、476行目。

 

今日はジョイスチューリヒで亡くなって(1941年1月13日)から80年の日だったんですね。このブログでは乱数に基づいて行き当たりばったりのところを読んでいますが、それにふさわしい場所が当たったと思います。

 

 

He goes back, weary of the creation he has piled up to hide him from himself, an old dog licking an old sore. But, because loss is his gain, he passes on towards eternity in undiminished personality, untaught by the wisdom he has written or by the laws he has revealed. His beaver is up.

 

彼は引き返す、自分を、古傷を舐める老犬を、自分から隠すために積み上げた創造に倦み果てて。しかし、彼の失うものは彼の利得なのだから、そうして不滅の人格の永遠へと歩みを進める。彼の書いた叡智にも彼が明らかにした法則にも無垢のままに。彼の顔当は上がっていた。

 

第9章。図書館で『ハムレット』について論じるスティーヴンの台詞または頭の中。第9章は演劇が主題であり、スティーヴンは自分を演じている。だから本当に彼が思っていることかはわからない。

Heは、定かでないが、シェイクスピアのことでしょう。

 

このブログの21回に書いた通り、スティーヴンの説はシェイクスピアと『ハムレット』の父王を同一視するもの。

シェイクスピアは年上の女性アン・ハサウェイに誘惑されやむなく結婚した。そして妻のアンはシェイクスピアの弟リチャードと不義の関係があった。この関係が『ハムレット』に投じられている。

父王ハムレットは、弟のクローディアスに暗殺され、王の妻のガートルードはクローディアスと結婚した。

この一節はいったいどういう意味なのか、とても難しい。ブログの21回の部分もにらみ合わせて、こういう意味ではないか、と納得できてきた。

 

ジョイスは次の2つの関係を並行して考えている

  A. 神と世界の創造

  B. 芸術家とその創作の創造。つまりシェイクスピアとその作品世界の創造

 

そして次の父子関係を並行して考えている。

  a. 神とその「同一実体」の子であるキリスト

  b. シェイクスピアとその分身、父王ハムレット

  c. 父王ハムレットとその息子、ハムレット王子

 

同一実体(consubstantial, consubstantiality)はキリスト教の根幹である三位一体説を説明する概念で、「父(神)と子(イエス)と聖霊」は三つの位格をもつが本質的に一つの実体であるということ。

この語は『ユリシーズ』に6回使われる。(U17.658) (U32.50) (U32.62) (U162.481)(U321.308) (U558.538)。この小説のキーワードの一つだろう。

古傷とは、アンに負わされた心の傷をいう。

シェイクスピアは、心の傷を、あらゆる経験を、創作に反映することで、みずからはその背後に、神の如き不朽の文豪の地位を築いた。

損失は彼の利得、とは、作中に描かれた彼のさまざまなトラウマや葛藤は、作者としての彼の利得となるということではないか。

そして、ジョイスは 、
  C. 自分とその作品、つまり自分と『ユリシーズ』 その他の作品の関係

をA.Bと並行して考え

    d. 自分とその分身スティーヴン
       e. ブルーム氏とその小説上の息子、スティーヴンの関係

をa.b.c.と並行に考えた。

 

彼は、自分自身とその家族、自分の生まれ育った町ダブリンに執拗にこだわりつづけ、その身の回りの一切を作品に反映することで、自分は神の如き創作者になろうとした。彼が『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』のような作品を書いたことの意味はこの一節に表れているのではないか。

 

顔当 beaver は、西洋の甲冑で顔を保護するシールドのこと。『ハムレット』第1幕第2場の引用である。ハムレットの腹心ホレイショーたちの前に現れた父王の亡霊は鎧をまとい、その顔当は上がっていた。

 

ハム         甲冑を着けてゐたと申すか?

マー、バー   さやうにござりまする。

ハム              頭(かしら)より爪先までも?

マー、バー   御意の通り 頭(かしら)より爪先までも。

ハム             では顏は見えなんだな?

ホレ      いや、見えましてござる、 顏當(かほあて) が引上げてござりました。

 

                   『ハムレット』(坪内逍遙譯、1933年)

 

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ハムレット、ホレイショー、マーセラスと亡霊

(Hamlet, Horatio, Marcellus, and the Ghost)

File:File-Hamlet, Prince of Demark Act I Scene IV.png - Wikimedia Commons