Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

34 (U341.1231)

確かに、科學が―目下の所―答へ得ぬ幾許かの問題が

 第34投。341ページ、1231行目。

 

 

There may be, it is true, some questions which science cannot answer—at present—such as the first problem submitted by Mr L. Bloom (Pubb. Canv.) regarding the future determination of sex. Must we accept the view of Empedocles of Trinacria that the right ovary (the postmenstrual period, assert others)is responsible for the birth of males or are the too long neglected spermatozoa or nemasperms the differentiating factors or is it, as most embryologists incline to opine, such as Culpepper, Spallanzani, Blumenbach, Lusk, Hertwig, Leopold and Valenti, a mixture of both?

 

確かに、科學が ー 目下の所 ー 答へ得ぬ幾許かの問題があるやも知れぬ。例へば、L.ブルーム氏(廣告.勧誘士)が將來の性決定に関して提起した最初の問題の如きものである。我々は如何なる見解を受け入れるべきであらうか。トリナクリアのエンペドクレスの、右の卵巢(月經後の期間によるとの説も有り)が雄の誕生の原因であるとの説、或は、あまりに長く放置された精子または精蟲が分化因子であるとの説、或は、カルペパー、スパランツァーニ、ブルーメンバッハ、ラスク、ヘルトヴィッヒ、レオポルド、ヴァレンティら多數の胎生學者の趨勢である見解、即ち两者の混合説であらうか。

 

 第14章。舞台は、国立産科病院の談話室。スティーヴンとブルーム、医学生らが談笑している。

 

第14章は、過去から現在に至る英語散文の文体史を文体模写でなぞる趣向となっている。この箇所はトマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley、1825 - 1895)の科学的著作の文体による。

 

Pubb. Canv.とはなにか。
ここは科学論文のパロディになっているので、広告勧誘員  Public Canvasser を学術的な肩書の略語のようにしたものだ。医学博士  Medicinae Universae Doctor を MUDr. とするように。

 

ブルーム氏の職業は、個人営業の新聞社の広告取り。新聞広告を出したい業者の新聞社への紹介や広告のデザインの考案を新聞社から受託する仕事のようだ。

 

エンペドクレス(B.C. 490頃 – B.C.430頃)は、シチリア出身の自然哲学者、医者、詩人、政治家。彼は、性分化について彼はこのようなことを言ったのだろうか。

 

検索してみると、彼の学説はアリストテレスの著作に引用されて残っているよう。アリストテレスの『動物の発生について』を見てみると、エンペドクレスの学説は何箇所にも、しかし批判的に引用されている。

 

そのうちに下の一節があった。

 

「アナクサゴラスやほかの自然哲学者たち・・・は「精液は雄から生じるのに対して、雌は場所を提供するだけであって、雄は右側の睾丸からやってくるが、雌は左側の睾丸からやってきて、雄は子宮の右側に宿り、雌は子宮の左側に宿る」と主張している。その一方で、エンペドクレスのように「雄と雌の対立は母胎内において生じる」と主張する人々もいる。すなわち、彼は「子宮が熱い状態の時にそこにやってきたものは雄になるのに対して、冷たい状態の時にそこにやってきたものは雌になるが、この熱さと冷たさの原因は月経血の流出であって、月経血が冷たかったり熱かったりするのは、それが古いものであるか、または新鮮であるかによる」と主張している。」

アリストテレス『動物の発生について』今岡正浩、濱岡剛訳(岩波書店、2020年)

 

ジョイスはこの一節を変形したのだろう。

 

この小説と『オデュッセイア』のモティーフとの対応では産科病院は太陽神の島トリナキエ島にあたる。トリナキエ島-トリナクリアとはシチリア島の別名。そのため、ここでエンペドクレスが呼び出された。

 

ちなみに、ブルーム氏は15章で、自分の睾丸は右側が重く、2つともズボンの右側にあると言っている。(U388.1300)

 

  ZOE:  How’s the nuts?

  BLOOM:  Off side. Curiously they are on the right. Heavier, I suppose.

       One in a million my tailor, Mesias, says.

 

さて、列記された人物はみな実在の学者。彼らが混合説を支持したのかは分からない。

 

ニコラス・カルペパー(Nicholas Culpeper 1616 – 1654)  

英国の植物学者、ハーバリスト、医師、占星術師。

 

ラッザロ・スパッランツァーニ (Lazzaro Spallanzani 1729 - 1799)

イタリアの博物学者。実験動物学の祖。

 

ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach 1752 - 1840)

ドイツの比較解剖学者、動物学者、人類学者。

 

ウィリアム・トンプソン・ラスク  (William Thompson Lusk 1838 - 1897)

アメリカの産科医

 

オスカー・ヘルトヴィッヒ(Oscar Hertwig  1849 – 1922 )

ドイツの動物学者。

 

クリスチャン・ゲルハルト・レオポルド (Christian Gerhard Leopold  1846 - 1911)

ドイツの婦人科医

 

ジュリオ・ヴァレンティ(Giulio Valenti 1860 - 1933)

イタリアの医師、胎生学者

 

これを書いていて気がついた。ブルーメンバッハ(Blumenbach)とレオポルド (Leopold)
をつなぐと、主人公の名前、レオポルド・ブルーム(Leopold Bloom)  になるということ。これはそういう遊びなんですね。

 

このブロブ7回でこの小説『ユリシーズ』とスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』には意外にたくさんの共通点があると書いた。

 

あの映画で、地球から木犀まで長い道のりを航行する宇宙船ディスカバリー号精子の形を模している。乗員のボーマンは映画のおしまいに、寝室のベッドの上で胎児(スターチャイルド)となる。

 

一方、この小説の第14章の構想に関して、ジョイスはフランク・バッジェン宛1920年3月20日付けの手紙でこう述べている。「ブルームは精子であり、病院は子宮、看護婦は卵子、スティーヴンは胎児です。」

 

トマス・ヘンリー・ハクスリーはイギリスの動物学者で、ダーウィニズムの唱導と防衛に活躍した。文学の好きな人には『すばらしい新世界』のオルダス・ハクスリー(1894 - 1963)が知られているが、その祖父にあたる。現在の日本人にはなじみのない人だが、意外に岩波文庫でその文章が読める。

 

「數へ切れぬ長い時の經過中に於ける鰐魚の、引續いては現はれた多數の種が、一々特別に創造されたことを信ずるための筋合ひを私は見出すことが出來ない。科學はこのやうな粗雜な空想に同意しないし、また聖書註解者の横紙破りの聰明が、創世記の筆者が、創造の第五日と第六日の過程を記録してゐる簡単な言葉に、この意味を發見すると僭稱することも出來ない。」

T.H.ハックスリ「一塊の白堊」『科学談義』小泉丹訳(岩波文庫、1940年)

 

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ルカ・シニョレッリによるエンペドクレス( Empedocles by Luca Signorelli)

"Empedocles" by █ Slices of Light █▀ ▀ ▀ is licensed under CC BY-NC-ND 2.0

 

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