Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

踊り場にて

回顧整理 ”retrospective arrangement”

 

このブログでは乱数に基づいて、アドランダムに『ユリシーズ』を読んできた。ブログがちょうど50個まで来たので、ひとまずこれまでの感想―回顧整理 "retrospective arrangement" をまとてみます。

 

 

1.ナボコフの文学講義

 

ナボコフの文学講義』(野島秀勝訳、河出文庫、2013年)におさめられた『ユリシーズ』の講義はこの小説の最良の解説だと思う。次の一節はこの小説がなぜ面白いのかを言い当てている。

 

プルーストジョイスとでは、それぞれ小説人物を取り上げる方法において、本質的な相違がある。ジョイスはまず一人の完全で絶対的な人物、神のみが知り、ジョイスのみが知っている人物を取り上げ、それからそれを断片に崩して、小説の時空間一面にその断片をまき散らす。良き読者はこれらパズルの断片めいたものを集めて、徐々に組み合わせる。」(下巻P.81 プルーストの講義の一節ですが)

 

ばらばらになったものを読者が頭の中で組み立てる、そのとき物語が走り出す。それが『ユリシーズ』の方法。

 

ジョイスがばらまいたものだがら、ばらばらに読んでも『ユリシーズ』は順に読むのと同じく楽しく読める。

 

50個の断章の限りにおいても、頭の中で情報を組み合わせると、この小説の主人はしっかり姿を現してくる。

 

ブルーム氏は1866年生れで、移民だった不幸な父をもち(5)(数字はブログの番号)、幼い息子を亡くしていて(10)、元カノはブリーン夫人(37) 妻は英領ジブラルタルの生まれ(26)、マーサという女と秘密の文通をしている(43)、職業は広告取りで(34)ユダヤ系で仲間に冷たくされており(35) フリーメイソンと噂される(24)、芝居を好み(5) シェイクスピアを暗唱する芸術家肌(43)、音楽を愛好し、オペラの知識があり(18)(32)、人にやさしい発明好き(49)。今日の動向は、馬車で葬式に行ってから新聞社へ、昼はデイヴィ・バーンで軽食をとり、夕はオーモンド・ホテルで食事し、魚市場を通ってバーニー・キアナンの酒場へ、さらに産科医院からスティーヴンらと共に娼館へ行ってから馭者溜まり経由で、深夜に家に帰った。

 

残念ながら、本ブログのテキスト上に、ボイラン氏はまだ姿を現さない。

 

2.ト書きのない小説

 

『深読みシェイクスピア』(新潮文庫、2016年)で著者の松岡和子さんはインタビュアーに答えこう言っている。

 

「―あ、シェイクスピアはあまりト書きをいれないんですか?
  近代以降の劇作家はト書きをきっちり書きますけど、それに比べれば非常に少ないですね。・・・近代以前の戯曲を訳すときは、ふだんより空間に対する想像力を働かせなければならない。誰がどこに立っていて、どの方向にむいてしゃべってうるのか、そうした「場」を内蔵した訳語を考えなければいけない。」(P.222)

 

ジョイスの小説の文章には、「ト書き」的な説明がすごく少ない。読者は誰と誰がどういう位置関係にいて、誰が誰に対してそう言っているか頭のなかで想像しながら読まなければならない。ただそれは丁寧に読めばわかるように書かれている。頭の中で小説が完成する。これも『ユリシーズ』の方法。

 

一番直近のブログ(50)を例にとってみると、ジョイスの文章はこう。

 

―しまった。と、大声で言った。あいつにキルデア伯がキャシェルの大聖堂に火をかけた後日談をしてやるのを忘れた。知ってるかいこの話。まじ、バカなことをしたぜ、伯爵はいったんだ。神にかけて、おれは大司教が中にいると思ったんだ。でもあいつの好みの話じゃないかも。えっ。きっと、いつか話してやろう。これぞ大伯爵、偉大なフィツジェラルドだ。荒っぽい輩さ、ジェラルド一家はみんな。

 

一読分かりにくいが、簡潔で、シャープで、テンポがいい。これにト書き的説明をいれてみる。

 

「しまった。」と、ランバート大声で言い、歩きながら隣にいるJ.J.オモロイに話しかけた。

あのプロテスタントの牧師にキルデア伯がキャシェルの大聖堂に火をかけた後日談をしてやるのを忘れた。知ってるかいこの話。」

ランバートは伯爵のセリフを、今風の言い回しで言った。

「王様に大聖堂を燃やしたことを糾問されたとき、『まじ、バカなことをしたぜ』って伯爵は言ったんだ。『神にかけて、おれは大司教が中にいると思ったんだ。』って、つまりさ、大司教が中にいないと知ってたら燃やしはしなかったって、ふてぶてしく言ったのさ。でもこんな罰当たりな話は牧師さんの好みのじゃないかもな。」

ランバートがオモロイの様子をうかがうと、オモロイは、あいまいに何か言っている。

「えっなんだって。きっと、いつか話してやろう。これぞ大伯爵、偉大なフィツジェラルドだ。荒っぽい輩さ、ジェラルド一家はみんな。」と、ランバートは言った。

 

こんな感じかな。わかりやすいが間延びしてしまう。これでは「世界」じゃない。

 

3.翻訳の言葉は今の言葉

 

ブログを書き始めた時、英語の原文だけを掲げようとしていた。既にある翻訳文を使うと著作権の問題があるから。しかし英文ではあまりに読みにくいので、シロウトながら自分で和訳をつけてみることにした。

 

訳してみると発見があって面白い。翻訳って基本的に現在の言葉で訳すことになるのですね。実は奇妙なことなのだが、やってみないと気づかない。

 

さっきの一節でも I’m bloody sorry I did it は1904年の労働者階級の使うことばという想定なので、本当は20世紀初頭の日本の庶民の言葉で訳さないといけない。しかしそれは困難だし、できたとしても、この箇所の面白さは出ない。だから今風に「まじ、バカなことをしたぜ」と訳すことになる。

 

4.本を呼ぶ本

 

ブログを書く過程でたくさん『ユリシーズ』以外の本をよむことになった。ブログに引用した本以外で言うと。

 

残念ながら、読んでもはかばかしくはわからないことが多い。

 

5.言葉の響きあい

 

ナボコフは3万語といっているが、『ユリシーズ』は語彙のきわめて多い小説だ。無作為に選ばれた断章を読んでいてもほとんど同じ単語に出会わない。逆に意識的に使われている単語に気づかされる。

 

たとえば、さっきの bloody という語。

 

道路工事人のセリフ(25) 

THE NAVVY: (Belching.) Where’s the bloody house?

 

12章の語り手がボブ・ドーランを罵るセリフ(45)に2回 

The tear is bloody near your eye. Talking through his bloody hat.

 

そして前回、ネッド・ランバートが語るキルデア伯のセリフ(50)

I’m bloody sorry I did it, says he, but I declare to God I thought the archbishop was inside.

 

bloody ジョイスにとって、ここぞという場面で荒っぽいセリフに精彩を与える大事な言葉のようだ。

 

bloody は20世紀初頭当時はきわめて下品な言葉だった。『ダブリナーズ』出版の際、ジョイスは出版者から削るよう要望されたが、彼は譲らなかった。

 

「しかし三番目はどうしても変えられません。…ぼくが狙う効果を生み出せる唯一の英語の表現です。(中略)淫らでも涜神的でもないこの言葉一つのために出せないというのは滑稽ではないでしょうか。」

1906年5月13日付、グラント・リチャーズへの手紙(P.254 リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』 宮田恭子訳、みすず書房、1996年)

 

三番目というのは、ボブ・ドーランの出てきくる『下宿屋』の一節。

 

 

6.詩的散文

 

英国の小説家、批評家フィリップ・トインビーは、散文でありながら本質的には詩的な文章があると言っている。

 

「けれども、なかには本質的に詩的な小説というものがある。… 純粋な散文でありながら、詩的表現のさまざまな可能性を見せてくれる小説ということなのだ。プルーストの大作の最初の数巻がこのカテゴリーに属している。『ユリシーズ』の大半、ディケンズの数多くの小説、フロマンタンの『ドミニク』、ファーバンクの最上の小説などもまたそうである。『ロリータ』がもっぱら属しているのはこの部類にほかならない。」

フィリップ・トインビー「ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』―英語に恋して」(富士川義之訳)『ロンドンで本を読む』(丸谷才一編著、光文社知恵の森文庫、2007年)

 

ユリシーズ』の前半は、普通の文体で書かれているといわれるが、じっくり読むとなにげないことが、実に美しい詩的な散文で書かれている。

 

例えばブログ(14)の、

A bevy of scampering newsboys rushed down the steps, scattering in all directions, yelling, their white papers fluttering.

 

ブログ(40)の、

He scrambled up by the stones, water glistening on his pate and on its garland of grey hair, water rilling over his chest and paunch and spilling jets out of his black sagging loincloth.

 

 

7.小説の森

 

ウンベルト・エーコは『小説の森散策』(岩波文庫、2013年)で森を物語テクストの隠喩としたうえで、森を散策するのに2つの方法があると言った。ひとつは目的をもって一本道をたどる方法、もう一つは森がどんなふうにできているか理解する方法。ジョイスは読者に第二の方法を期待して小説を書いたにちがない。それでどの任意の一節にも迷いこむ小径が見つかる。

 

ブログ(50)の一節を例にとってみる。テキスト上の話は簡単なものだが、そこに聖マリア修道院やキャシェルの大聖堂、ジェラルド・フィツジェラルドといった固有名詞が導入される。読者はその意味を知らなければならない。(今時それはネットを利用すれば簡単なことになった。)

 

そうすると大聖堂を燃やした中世の伯爵と、ダブリンの最も古い歴史的遺構を倉庫に使っている現在の穀物ランバートの不敬ぶりが重ね合わされる。おそらくカトリックであるダブリンの一般庶民ランバートが、支配階級のプロテスタントの牧師に、倉庫に使っているいにしえの聖堂を案内するという悲しさがにじみ出る。

 

ヒント的に示される副旋律が、語られているストーリーを多義的に豊かにする。これが『ユリシーズ』の物語の方法、語りの経済。

 

 

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"Houten trap" by thedogg is licensed under CC BY-SA 2.0

 

それでは、100個めざして、いってみよう!

 

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