Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

104 (U584.1464)

1904年6月16日の収支報告を作成せよ。

第104投。584ページ、1464行目。

 

 

 

第17章。この章は始めから終わりまで、問と答で書かれている。ブルーム氏の本日の収支について回答が示される。この収支表は『ユリシーズ』の本文中に掲載された異質な要素として目を引く有名なもの。

 

この表を詳しく見ていくといろいろな問題がある。

 

 

Budget とは、通常は「どれくらいの資金をどのように使うかという計画、予算」の意味だが、ここはブルーム氏の今日のお金の出入りの記録を作れということなので、「収支報告書」とした。

 

英国の通貨

まず、英国のお金の整理から。

1ポンド(£)  は  20シリング (s)
1シリング (s) は  12ペンス (d)

 

Currency converter というサイトで過去の金額について現在での価値が計算できる。

 これによると

当時の1ポンドは現在の78ポンドに相当し円でいうと約13,000円。

1シリングは現在の4ポンドで660 円に相当。

1ペニーは現在の0.3ポンドで55円に相当。

 

貨幣および商品の流通

時系列にそってお金の出入りを見てみよう。(貸方つまり入金は青字)

 

第4章

①まず、手持ちのお金が4シリング9ペンスだった。

 

②エクルズ通りの自宅の近所、ドルーガックの店で朝食用の豚の腎臓を購入。

 

第5章

③自宅からからサー・ジョン・ロジャースン河岸通りまでのどこかでフリーマンズ・ジャーナル紙を購入

 

リンカーン・プレイスのスウィニー薬局で、モリーのために化粧水を注文する。2シリング9ペンス。石鹸を4ペンスで購入。合計3シリング1ペニー。これは化粧水を取りに来た時にまとめて払うことにしたのだが、結局取りに行かなかったので、支出していない。ブルーム氏は石鹸は受け取って風呂で使っている。収支報告に記載はない。

 

⑤薬局の近くのトルコ風呂で入浴。Gratificationはチップの古い言い回し。

 

第6章

⑥入浴後、ナッソー通りの駅からサンディマウント行の路面電車に乗りトライトンヴィルで下車したと推測。亡くなったディグナムの家を訪問。

 

⑦ブルーム氏がディグナムのお悔やみに5シリング出したことが第10章で語られている。

—Look here, Martin, John Wyse Nolan said, overtaking them at the Mail office. I see Bloom put his name down for five shillings.

—Quite right, Martin Cunningham said, taking the list. And put down the five shillings too.

(U202.974―)

 

しかし、ブルムー氏の手持ちのお金が4シリング9ペンスだったとすると、この時点で5シリングは払えないはずだ。⑧の報酬をもらった後なら払えるのだが。

 

第7章

⑧墓地でのディグナムの葬儀の後、フリーマンズ・ジャーナル社で広告取の手数料をもらっている。

 

第8章

⑨オコンネル橋のあたりで物売りの老婆から2つ1ペニーのバンベリーケーキを買い、リフィー川のカモメに投げている。バンベリーケーキは、干しブドウ、砂糖煮のレモンなどを入れた楕円形のパイ。

 

"File:Banbury cake.jpg" by Redrose64 is licensed under CC BY-SA 3.0.

⑩デューク通りのデイヴィ―・バーンでゴルゴンゾーラのサンドイッチとブルゴーニュワインの昼食。昼食ではチップを払っていない。

 

第10章

⑪マーチャンツアーチの貸本屋で妻のモリーのため「罪の甘美」を借りている。貸本屋の保証金の更新料が1シリングなのだろう。

 

第11章

⑫文通相手のマーサに手紙を書くため、オーモンド河岸通りのデイリーの店で2枚+予備1枚のクリーム色の模造皮紙と封筒2枚 “Two sheets cream vellum paper one reserve two envelopes” を購入。Packet Notepaper の packet はなんだろうか。紙の大きさだろうか。調べても分からない。便箋1セットの「セット」ということと思う。

 

⑬オーモンドホテルのレストランで夕食。シードル1瓶とマッシュポテト付きのレバーとベーコンを食べた。2シリングのうち2ペンスがチップ。ここでマーサへの手紙を書いた。

 

⑭ホテルを出てその近く、オーモンド河岸通りにある郵便局で、マーサ宛ての手紙を出す。ブルーム氏はマーサへの手紙に郵便為替(postal order)を同封している。郵便為替とは、差出人が郵便局の振り出す為替証書によって送金する制度。受取人は郵便為替を郵便局で換金する。

 

1922年アイルランド独立後の郵便為替

File:Postal Order Provisional Govt Ireland overprint 1922.jpg - Wikimedia Commons

 

ブルーム氏は第8章でマーサに金を送ることを思いついている。

Postoffice. Must answer. Fag today. Send her a postal order two shillings, half a crown. Accept my little present. Stationer’s just here too. Wait. Think over it.

(U149.1132)

 

第11章でさらにお金の勘定をして、マーサに送る金を決めている。

Five Dig. Two about here. Penny the gulls. Elijah is com. Seven Davy Byrne’s. Is eight about. Say half a crown. My poor little pres: p. o. two and six.

(U229.866-)

 

半クラウン銀貨は2シリング6ペンス。2シリング6ベンスの郵便為替を送ろうと考えている。それには1ペニー手数料がかかるのではないだろうか。手数料は調べても分からなかった。そして封筒に張る切手代が1ペニーで合計2シリング8ペンスになったと推測。

 

第12章

⑮ブルーム氏はバーニー・キアナンの酒場で2ペンスらしい葉巻を吸っているが、これは買ったのでなくハインズにもらったらしい。

 

第13章

⑯サンディマウント駅から路面電車に乗車、おそらくマウント通りで下車してホリス通りの産科病院へ行った。

 

第14章

⑰ホリス通りのバークの酒場で、ブルーム氏はおそらくジンジャー・コーディアルを飲んでいるようだが、おごってもらったのか、支払っていないようだ。

 

⑱娼館街に行くためウェストランド・ロウ駅からアミアンズ通り駅まで鉄道に乗車したはずだが、賃は収支報告に記載されていない。

 

当時の電車賃がわからないが、検索した記事から3等の最低料金は1ペニーのようだ。

 

第15章

アミアンズ通りの駅から出てきたときすでにどこかでチョコレートを買っている。チョコレートが  Fry’s Plain Chocolate であることはこの収支で初めてわかる。

 

これは英国の J.S.Fry & Sons 社のチョコ。フライ社は1847年世界ではじめて固形のチョコレートを製造した。フライ社は、CadburyおよびRowntree'sと並んで、19 世紀から 20 世紀にかけて英国の 3 大菓子メーカーの 1 つであり、3 社ともクエーカー教徒によって設立されたという。のちにフライ社はCadburyに吸収され現在もフライブランドのチョコはCadbury社により生産されている。

 

Plain Chocolate とは、乳製品を加えないチョコレートのことで、板チョコという意味ではない。

 

フライ社のの広告用ポストカード

"Advertising postcard for Fry's Chocolate - early 1900s" by Aussie~mobs is marked with Public Domain Mark 1.0.

 

⑳チョコとおなじくどこかでパンを買っている。15章では単に bread と呼ばれているが、収支報告では soda bread と記載されている。

 

ソーダブレッド(soda bread)とは、膨張剤としてイースト菌の代わりに炭酸水素ナトリウム(重曹)を用いたクイックブレッドの一種。

          

"Irish soda bread #snow" by John C Abell is licensed under CC BY-NC-SA 2.0.

 

㉑トールボット通りのオルハウセン肉店で豚の腿肉と羊の脚肉を購入。

 

チョコやパン、豚や羊の肉をなぜ買っているのは謎だ。

 

㉒ベラ・コーエンの娼館でややこしいお金のやりとりがある。

 

ティーヴンがベラにお勘定(1人10シリング、3人で30シリング)を要求されて1ポンド紙幣(20シリング相当)、さらに半ソヴリン金貨(10シリング)とクラウン銀貨2枚(10シリング相当)を支払う。ブルーム氏は半ソヴリン金貨(10シリング)を出しスティーヴンの渡した1ポンド紙幣(20シリング)を返してもらいスティーヴンに渡す。結局スティーヴンが2人分、ブルーム氏が1人分払ったことになる。

 

しかしブルーム氏のこの支払は収支報告に記載されていない。

 

㉓酔っぱらったスティーヴンを心配して、彼の持ち金1ポンド7シリング(正確には1ポンド6シリング11ペンスのようである)を預かる。

 

㉔スティーヴンが壊したシャンデリアの弁償代としてベラに1シリング支払う。

これも収支報告に記載がない。

 

第16章

㉕ベレスフォードプレイスの馭者溜りでスティーヴンのために丸パンとコーヒーを買ってやる。“bun”は小型の丸いパンのことをいう。

  

これはホットクロスパン。

"Hot cross buns" by Akane86 is licensed under CC BY-NC-ND 2.0.

 

第17章

㉖自宅に連れてきたスティーヴンに先ほど預かった1ポンド7シリングを返却。

 

㉗残金が16シリング6ペンス。

 

㉘ブルーム氏はチョッキの左下のポケットに1シリング銀貨を発見しており、それはおそらく昨年シニコウ夫人の埋葬の際にそこに入れたものだった。この1シリングは残金に含まれていると思われる。なぜならこの1シリングの発見の直後に収支報告をしているのだから。

 

チョコレートの価格

お金の出入は以上だが、借方(支出)を合計してみると、2ポンド18シリング4ペンスとなり総額と合わない!

このブログはThe Project Gutenberg のテキストからコピーして使っているが、チョコレートの値段が1ペニーになっているのが問題のようだ。ベージ数と行数の根拠としてみているGabler版によると、1シリングとなっており、これなら計算が合う。

 

当時のチョコはいくらしたのだろう。フライ社のチョコのことは分からなかったが、検索した記事(Snack History)によるとアメリカのハーシー (Hershey) 社のチョコバーは1900年に5セントだったという。The Infration Calculator という米ドル換算サイトによれば、1900年の5セントは現在の1.65ドルというから、今の220円くらい。

 

ということでフライ社のチョコが1ペニー(現在の55円)である可能性はあるが、1シリング(現在の660円)であることはなさそうだ思われる。しかし総額がまちがっているこということは考えにくいので、やはり収支報告上の数字は1シリングと表記するのが正しいとみるべきでしょう。

 

可能性として、①ジョイスがうっかり1シリングと間違った、②ジョイスがわざと1シリングと間違えた、③ほんとうにチョコが1シリングした、ということが考えられる。その答えはわからない。

 

問題とその解決

いったい誰がこの収支報告の作成を命じて、誰が作成しているのかという問題。これは第17章全体にわたる謎だ。

 

⑰夜の町への交通費、㉑娼館での支払い、㉓娼館のシャンデリアの弁償、が省かれてていることから見て、この収支報告には、娼館に行ったことを隠蔽したいとのブルーム氏の意思(またはその深層意識)が反映していると考えられる。

 

残金は報告書作成の時点であるものなので報告書と合っていると考えるべきだろう。

 

⑰の1ペンス+㉑の10シリング+㉓の1シリングの計11シリング1ペンスの支出が消去されているので、本当は始めの持ち金が11シリング1ペンス多かった、つまり4シリング9ペンス+11シリング1ペンスで15シリング10ペンスだった、ということではないか。そうするとディグナムのお悔やみが払えないはず、という矛盾も解決する。

 

このブログの方法については☞こちら