あいつがペッと言った。
第115投。177ページ、1137行目。
He spat blank.
Forgot: any more than he forgot the whipping lousy Lucy gave him. And left the femme de trente ans. And why no other children born? And his first child a girl?
Afterwit. Go back.
The dour recluse still there (he has his cake) and the douce youngling, minion of pleasure, Phedo’s toyable fair hair.
Eh... I just eh... wanted... I forgot... he...
あいつがペッと言った。
忘れてた。彼が陋劣なルーシーの鞭打ちを忘れた以上に。『三十女』を置き去りにしたことも。なぜほかに子供がうまれなかったのかも。初めの子が女の子だったのかも。
後知恵だ。引き返せ。
陰気な世捨て人がまだあそこにいる(菓子はまだある)、最愛の若者、寵愛の児と。パイドンの金髪を愛玩する。
えっと…ちょっと…えっと…言い忘れたんだ…彼は
第9章の終盤。国立図書館。スティーヴンの出てくる場面では、いったい彼は何を言っているのか、意味を理解するのが本当に難しい。
主人公のスティーヴン、図書館主任のウィリアム・リスター、副主任でエッセイストのジョン・エグリントン、副主任で学者のリチャード・ベスト、スティーヴンの友人バック・マリガン(批評家、詩人のジョージ・ラッセルは退出して、マリガンが加わった)がシェイクスピアについて論議をしていたところ。
彼らは今どこにいるのか
国立図書館は現存する公共の建築なので実際に小説の場面をイメージすることができる。
A. 彼らは、リスター館長の部屋で議論していたが、スティーヴンはマリガンの背後について席を立った。「アーチ天井の小部屋から強烈な日の光の下へ」出てきた。図書館員の3人は図書館に留まっている。
Stephen, greeting, then all amort, followed a lubber jester, a wellkempt head, newbarbered, out of the vaulted cell into a shattering daylight of no thought.(U176.1109)
2階の平面図
B. 日の光の下、つまり「誠実なる閲覧室」のなかへ。
The constant readers' room. In the readers' book Cashel Boyle 'Connor Fitzmaurice Tisdall Farrell parafes his polysyllables. Item: was Hamlet mad? The quaker's pate godlily with a priesteen in booktalk. (U177.1115)
C. 「回転扉」をぬけて
The turnstile. (U177.1122)
ここが昔は回転扉だったのか。外から閲覧室を見た写真になるが。
D. 「曲線を描く手すり」のある階段を下る。
The curving balustrade: smoothsliding Mincius. (U177.1224)
E. そして今回のブログの場面に至る。だから階段の途中の出来事と考えられる。
(U177.1133-)
1階の平面図
この後は。
F. その後さらに階段を下り
He went on and down, mopping, chanting with waving graceful arms: (U177.1224)
(U177.1224)
G. 「階段の上り口」で止まる。…「円柱のムーア風ホール」。
He stopped at the stairfoot.
…
The pillared Moorish hall, shadows entwined. (U178.1166-)
H. 入り口から外へ。
About to pass through the doorway, feeling one behind, he stood aside. (U178.1197)
I. 表の「柱廊」へ。そしてブログの第97回の場面につながる。
The portico. (U179.1205)
シェイクスピアの家族
”He spat blank.”とはどういう意味か。
集英社版も河出書房版も和訳では「唾を吐いた」とあるが、調べても "blank" に唾らしい意味がない。"blank" は 空白、空虚ということなので「つばを吐くまね」をしたという意味ではないか。ペッといったのは行儀の悪いマリガンだろう。
”Forgot”「忘れてた」というのは、スティーヴンで、さっきの議論で言うのを忘れたことに気づいた。
彼の説は、シェイクスピア(1564 - 1616)は、1582年、8歳年長のアン・ハサウェイ(1555/1556 - 1623)と、できちゃった婚をしたのだが、妻の不義により結婚生活は不幸なものであり、そのことは彼の作品(『ハムレット』など)に反映している、というもの。
彼が忘れていたというのはつぎのような事実。
サー・トマス・ルーシー(Sir Thomas Lucy, 1532 – 1600) は、はエリザベス女王の時代にシェイクスピアの故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンでカトリックの取り締まりをしたプロテスタントの豪族。シェイクスピアはルーシーの庭園で鹿泥棒をして捕らえられ鞭うたれた。彼は「ルーシーはラウジー(しらみだらけ)」“If lousy is Lucy as some folks miscall it”という戯れ歌を書き、それが原因でロンドンへ逃げたとの伝説がある。
ハサウェイとシェイクスピアの間には3人の子供が生まれた。1583年生まれのスザンナ、1585年に生まれた双子の兄妹ハムネットとジュディス。その後に子供はいない。
→ 家系図
双子の誕生後、ハサウェイを故郷に残して1593年にロンドンに現れるまで、彼がどこで何をしていたか記録がない。“La Femme de trente ans”とはフランス語で 『三十女』、ハサウェイのことを指すが、フランスの文学者オノレ・ド・バルザックの作品群『人間喜劇』のなかの一作のタイトル。
しかし、なぜこういうことが彼の説のサポート材料になるのかはわからない。
引き返せ
”Go back””「引き返せ」とは、どこに引き返すのか?
さっきまで議論していた部屋へ、言い忘れたことを言いに、リスター館長の部屋へ引き返せ、ということではないか。スティーヴンはマリガンと別れたかった。しかし結局彼は引き返さず、第97回の場面に至り、「もう争うのはやめよう」と決意する。
ソネット
「陰気な世捨て人」とは、エグリントン。「最愛の若者」はベスト。スティーヴンは彼らを同性愛の関係とみている。
”you can't eat your cake and have it." は 「菓子は食べたらなくなる ー同時に両方よいことはできない」という諺。(U168.738)に一回このフレーズが出てくる。それで ”he has his cake" は、エグリントンはベストをまだ食べてないとの意味だろう。
”minion of pleasure” は、シェイクスピアの『ソネット集』の126番から。
『ソネット集』はシェイスピアの 14行詩集。 154編より成る。主要部 (1~126番) は名前のない美貌の貴公子にあてたもの。作者の愛が歌われている。
Yet fear her, O thou minion of her pleasure;
She may detain, but not still keep, her treasure.
さはれ彼れを恐れよ、彼れには喜ばれて其寵兒となれる君よ、
彼れは其寶を抑留し得むも、長永に保有し得ざらむ。坪内逍遥 譯
パイドン
『パイドン』は、プラトンの対話篇。ソクラテスは刑死の日、集まった弟子たちと魂の不死について対話する。その場に居あわせたパイドンがエケクラテスにその内容を物語る。
対話の中盤、ソクラテスは、パイドンの頭を撫で、首の周りの髪にたわむれる。
「あの方は私の頭を撫で、首のまわりの髪の毛をにぎりしめてーときおり私の髪の毛にたわむれられるのは、いつものことでした」
アリストテレス派のスティーヴンに対し、エグリントンらはプラトン派なのだ。
最後の、”Eh... I just eh... wanted... I forgot... he...” は誰の台詞か。これはほんとうに、よくわからない。スティーヴンが引き返してしゃべる様子を自分で空想しているものと考えた。
"NYC - Metropolitan Museum of Art - Death of Socrates" by wallyg is licensed under CC BY-NC-ND 2.0.
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