Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

121 (U616.375)

ふつうの工員さんがわたしたちを客車にふたりきりにしてくれた

第121投。616ページ、375行目

 

that common workman that left us alone in the carriage that day going to Howth Id like to find out something about him 1 or 2 tunnels perhaps then you have to look out of the window all the nicer then coming back suppose I never came back what would they say eloped with him that gets you on on the stage the last concert I sang at where its over a year ago when was it St Teresas hall Clarendon St little chits of missies they have now singing Kathleen Kearney

ふつうの工員さんがわたしたちを客車にふたりきりにしてくれたホウスに行ったあの日いったいどういう人だったのかトンネルをたぶん1つ2つ窓のながめはいっそう素敵でながめずにはいられないそれから帰ってきたもし私が帰ってこなかったら駆け落ちしたなんていわれたかもそしたらまた舞台に上がることになってわたしが歌った最後のコンサートはどこだっけ1年以上まえクラレンドン通りの聖テレサホール今は小娘たちが歌っているキャスリーン・カーニーとか

 

最終章。第18章。ブルーム氏の妻のモリ―の寝床での心中。ピリオドもコンマもない単語の長大な連なり、8つでできている。ここはその2つ目の真ん中あたり。

 

 

ホウスとグレーストーンズ

ブルーム氏は1888年、ダブリン湾の北に突き出すホウス岬のホウスの丘でモリーに求婚した。そのことはブルーム氏により小説中で何度も回想される。ここでモリーが思い出している「ホウスにいったあの日」というのは、この日のことだろう。

 

見知らぬ工員さんが、気を使って、客車にモリーとブルーム氏2人きりにしてくれた。

 

1904年当時、ダブリンの中心部(アミアンズ・ストリート駅 ― 現 コノリー駅)からホウスまでの路線は、Great Northern Railway (Ireland) により運営されていた。しかし、この路線を見る限りトンネルはみつからない。

 

ダブリン近郊でトンネルを探してみると、南に下り、ブレイ・ディリー(Bray Daly)からグレイストーンズ(Greystones)までの間の路線にいくつもトンネルがある。

 

Walk of the week: Bray to Greystones Co Wicklow - Independent.ie

 

当時、ダブリンの中心部(ウェストランド・ロウ駅 ―現 ピアース駅 )からグレイストーンズへの路線はDublin, Wicklow and Wexford Railwayにより運営されていた。

 

ウェストランド・ロウ駅とアミアンズ・ストリート駅は1891年にループライン(City of Dublin Junction Railway)でつながっている。(ブログの第92回

 

ブレイとグレイストーンズの間の海岸線沿いは大変な絶景が眺められ、今回のブログの個所の記述と符合する。

 

ホウスとグレイストーンズは、ダブリン近郊の代表的な避暑行楽地だった。現在は、ホウスとグレイストーンズはダブリン高速輸送(The Dublin Area Rapid Transit system DART)で結ばれている。ダブリン市中からは全く逆の方向になる。

 

DART路線地図

File:DART路線地図.png - Wikimedia Commons

 

グレーストーンズからブレイへの車窓の眺めが動画見られる。幸いトンネルもカットされていないので体験できます。→ YouTube

 

ブルーム氏がホウスで求婚したのは1888年で、ホウスとグレイストーンズがつながったのは1891年なので、同じ日に両方へ行ったとはどうも考えにくい。モリーはホウスに行った記憶と、別の日にグレイストーンズに行った記憶をごっちゃにしているように思われる。

 

グレイストーンズは小説に一回だけ出てくる。モリーが息子のルディーを妊娠した時、グレイストーンズでのコンサートをキャンセルしたと、ブルーム氏は第6章で回想している。

 

Got big then. Had to refuse the Greystones concert. My son inside her. I could have helped him on in life. I could. Make him independent. Learn German too.

(U74.82)

 

キャスリーン・カーニー

中盤の suppose は、命令法で接続詞的に「もし…ならば」の意味。supposeの語 は13章にも多いが、18章には頻出する。モリーの語彙なのだろう。

 

クラレンドン通り(Clarendon St)には現在も聖テレサ教会があるが、聖テレサ・ホールというのは教会とは別のホールであったようだ。アイルランド文芸復興運動の象徴的な作品、イエーツの『キャスリーン・ニ・フーリハン』 Cathleen Ni Houlihan が1902年に上演されている。→ Irish Times

 

キャスリーン・カーニーはジョイスの短篇集『ダブリンの人びと』Dubliners のなかの『母親』A Mother の登場人物。カーニー夫人は娘のキャスリーンをアイルランド民族主義的団体の催す音楽界でピアノ伴奏者として売り出そうとする。

 

『母親』をあらためて読んでみた。驚くべきことにこういう一節があった。

 

毎年七月になると、カーニー夫人は機会をみつけては友人のだれかに言った。

 ―主人がわたしたちをスケリーズへ二三週間避暑に追いやろうとしていますのよ。

 スケリーズでないときはホウスグレイストーンズだった。

     『ダブリンの人びと』米本義孝訳(ちくま文庫、2008年)

 

Every year in the month of July Mrs Kearney found occasion to say to some friend:

 ―My good man is packing us off to Skerries for a few weeks.

 If it was not Skerries it was Howth or Greystones.

 

ジョイスにとって、ホウスとグレイストーンズはセットになって結びついているようだ。

 

カーニー夫人は娘の名前がキャスリーンで、『キャスリーン・ニ・フーリハン』と同じということを利用して、アイルランド復興運動がさかんになる風潮に乗って娘を売り出そうする。

 

 アイルランド復興運動がさかんになりだすと、カーニー夫人は娘の名前キャスリーンを利用することに決め、またアイルランド語の教師を家に連れてきた。

 

 When the Irish Revival began to be appreciable Mrs Kearney determined to take advantage of her daughter’s name and brought an Irish teacher to the house.

 

モリーは「テレサ・ホール」から、1902年の『キャスリーン・ニ・フーリハン』上演を連想し、同じ名前の「キャスリーン・カーニー」を連想した、と読み解ける。

 

グレイストーンズからブレイへ向かう列車とブレイ・トンネル

File:Train heading towards Bray as seen from coast path N of Greystones - geograph.org.uk - 4275553.jpg - Wikimedia Commons

 

このブログの方法については☞こちら