―さあ、上へ行きましょう
第289投。203ページ、1031行目。
—Come on up, Martin Cunningham said to the subsheriff. I don’t think you knew him or perhaps you did, though.
With John Wyse Nolan Mr Power followed them in.
—Decent little soul he was, Mr Power said to the stalwart back of long John Fanning ascending towards long John Fanning in the mirror.
—Rather lowsized. Dignam of Menton’s office that was, Martin Cunningham said.
Long John Fanning could not remember him.
Clatter of horsehoofs sounded from the air.
―さあ、上へ行きましょう、マーティン・カニンガムが執行官に言った。彼のことはご存じないでしょう、でもひょっとしたらご存じかな。
パワー氏がジョン・ワイズ・ノーランとこれに続いた。
-実に小気味よい男でした、パワー氏が、背中に向かって語りかけた、鏡に映った背高ジョン・ファニングに向かって階段を上る背高ジョン・ファニングの峻厳たる背中に。
-わりと小柄な。メントン事務所のディグナムのことですよ、マーティン・カニンガムが言った。
背高ジョン・ファニングは覚えがなかった。
どこからともなく馬蹄の音がカタカタと響いてきた。
第10章は、19の断章から成り、ダブリンのさまざまな場面が描かれる。ここはその第15番目の断章の終盤。
この断章の人物の動きはやや込み入っている。分解して押さえておきたい。人物の経歴も難しいので、この機に文面にしておこうと思う。
①マーティン・カニンガム(アイルランド総督府・Dublin Castle administrationに所属)が、ジャック・パワー(武装警察部隊である王立アイルランド警察隊・Royal Irish Constabularyに所属 👁1)、ジョン・ワイズ・ノーラン(どういう職務の人かわからない。おそらく総督府の人だろう)とともに、総督府から出てくる。
②一行は、おそらく市庁舎からでてきた、ジミー・ヘンリー(市書記官補・Assistant Town Clerk 👁2)をみかけて追いかける。ヘンリーはジェイムズ・キャヴナのワインハウス(James Kavanagh’s winehouse)へ行くところらしい。
③キャヴナの入口には背高ジョン・ファニング(執行官・Sub-sheriff 👁3)がいる。
④カニンガムは、死んだディグナムの遺族への寄付をヘンリーとファニングに募るがよい返事をもらえない(はっきりしないが、そういうことだろうと推測する)。
⑤ヘンリーがキャヴァナに入りその階段を上る。
⑥続いてカニンガムがファニングを誘って、階段を上る。
⑦ノーランとパワーがこれに続いて、階段を上る。
今回の場面はこの階段での会話、ということになる。
👁1
王立アイルランド警察隊はアイルランド総督の下に位置づけられる。だからパワー氏はカニンガムの同僚ということになる。
👁2
「ダブリン市当局」(Dublin Corporation)における、市議会の事務方トップが「市書記官」(Town Clerk)で、市議会の会議、議事録、公文書、条例・法務、選挙その他の行政事務を統括。その直属の上級職員が 「市書記官補」(Assistant Town Clerk)。
「アイルランド総督府」は英国政府によるアイルランド統治の中央政府。一方、「ダブリン市当局」は、市長・市会議員などを含むダブリン市自治体のことであり、両者は別の系統になる。
👁3
「執行官」(Sub-sheriff)とは、裁判所の命令や法の執行などの職務を遂行する役人。執行官には、ダブリン市の系統 Sub-sheriff of the City of Dublinとダブリン郡の系統 Sub-sheriff of County Dublinある。おそらくファニングは市系統の執行官で、そうするとヘンリーと同じく市当局の人ということだろう。ただし職務が違うので上司部下の関係ではない。
□アイルランド総督府 □ダブリン市庁舎 □ジェイムズ・キャヴナ
→一行の行路 →総督の騎馬行列の行路

ジェイムズ・キャヴナのワインハウス(James Kavanagh’s winehouse)は現存しない。その場所は現在、Turk’s Headというパブになっている。ジェイムズ・キャヴナは2階にあったように読めるが、このパブには2階に至る階段はないようだ。2階は Paramount Hotelというホテルに占められている。

Turk’s Head
カニンガム一行のもともとの目的地はジェイムズ・キャヴナではない(おそらくバーニーキアナンの酒場)、しかし、ヘンリーやファニングとキャヴァナの2階に入っていくのは、彼らに募金に参加することを説得するためと思われる。
金澤周作著『チャリティの帝国――もうひとつのイギリス近現代史』(岩波新書、2021年)を読み、英国では、国家による福祉とは別に、「民間人が自発的に他人を助ける=チャリティ」が巨大な社会制度として発達した、ということを学んだ。上流階級であろうカニンガムがディグナムの遺族の世話を焼くのは、こういう文化が背景にあるのだろう。しかしカニンガムとディグナムの関係は小説から読み取れない。
そういえば、通りかかった総督の騎馬行列も慈善市に向かっている。
今回の個所の一節、パワー氏が執行官の後ろから話しかける場面は、この小説で最も好きな一節だ。実にコンパクトな叙述なのだけど、映画的な魅力に満ちた名場面だと思う。訳はどうしてもうまくはいかない。

https://unsplash.com/photos/a-person-standing-on-a-stair-case-in-front-of-a-mirror-WcIrt3cV954
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