Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

289 (U203.1031) - 慈善の帝国

―さあ、上へ行きましょう

第289投。203ページ、1031行目。

 

 —Come on up, Martin Cunningham said to the subsheriff. I don’t think you knew him or perhaps you did, though.

 

 With John Wyse Nolan Mr Power followed them in.

 

 —Decent little soul he was, Mr Power said to the stalwart back of long John Fanning ascending towards long John Fanning in the mirror.

 

 —Rather lowsized. Dignam of Menton’s office that was, Martin Cunningham said.

 

 Long John Fanning could not remember him.

 

 Clatter of horsehoofs sounded from the air.

 ―さあ、上へ行きましょう、マーティン・カニンガムが執行官に言った。彼のことはご存じないでしょう、でもひょっとしたらご存じかな。

 

 パワー氏がジョン・ワイズ・ノーランとこれに続いた。

 

 -実に小気味よい男でした、パワー氏が、背中に向かって語りかけた、鏡に映った背高ジョン・ファニングに向かって階段を上る背高ジョン・ファニングの峻厳たる背中に。

 

 -わりと小柄な。メントン事務所のディグナムのことですよ、マーティン・カニンガムが言った。

 

 背高ジョン・ファニングは覚えがなかった。

 

 どこからともなく馬蹄の音がカタカタと響いてきた。

 

 

第10章は、19の断章から成り、ダブリンのさまざまな場面が描かれる。ここはその第15番目の断章の終盤。

 

この断章の人物の動きはやや込み入っている。分解して押さえておきたい。人物の経歴も難しいので、この機に文面にしておこうと思う。

 

マーティン・カニンガム(アイルランド総督府・Dublin Castle administrationに所属)が、ジャック・パワー(武装警察部隊である王立アイルランド警察隊・Royal Irish Constabularyに所属 👁1)、ジョン・ワイズ・ノーラン(どういう職務の人かわからない。おそらく総督府の人だろう)とともに、総督府から出てくる。

 

一行は、おそらく市庁舎からでてきた、ジミー・ヘンリー(市書記官補・Assistant Town Clerk 👁2)をみかけて追いかける。ヘンリーはジェイムズ・キャヴナのワインハウス(James Kavanagh’s winehouse)へ行くところらしい。

 

キャヴナの入口には背高ジョン・ファニング(執行官・Sub-sheriff 👁3)がいる。

 

カニンガムは、死んだディグナムの遺族への寄付をヘンリーとファニングに募るがよい返事をもらえない(はっきりしないが、そういうことだろうと推測する)。

 

ヘンリーがキャヴァナに入りその階段を上る。

 

続いてカニンガムがファニングを誘って、階段を上る。

 

ノーランとパワーがこれに続いて、階段を上る。

 

今回の場面はこの階段での会話、ということになる。

 

👁

王立アイルランド警察隊はアイルランド総督の下に位置づけられる。だからパワー氏はカニンガムの同僚ということになる。

 

👁

「ダブリン市当局」(Dublin Corporation)における、市議会の事務方トップが「市書記官」(Town Clerk)で、市議会の会議、議事録、公文書、条例・法務、選挙その他の行政事務を統括。その直属の上級職員が 「市書記官補」(Assistant Town Clerk)。

 

「アイルランド総督府」は英国政府によるアイルランド統治の中央政府。一方、「ダブリン市当局」は、市長・市会議員などを含むダブリン市自治体のことであり、両者は別の系統になる。

 

👁

「執行官」(Sub-sheriff)とは、裁判所の命令や法の執行などの職務を遂行する役人。執行官には、ダブリン市の系統 Sub-sheriff of the City of Dublinとダブリン郡の系統 Sub-sheriff of County Dublinある。おそらくファニングは市系統の執行官で、そうするとヘンリーと同じく市当局の人ということだろう。ただし職務が違うので上司部下の関係ではない。

 

アイルランド総督府 ダブリン市庁舎 ジェイムズ・キャヴナ

一行の行路 総督の騎馬行列の行路

 

ジェイムズ・キャヴナのワインハウス(James Kavanagh’s winehouse)は現存しない。その場所は現在、Turk’s Headというパブになっている。ジェイムズ・キャヴナは2階にあったように読めるが、このパブには2階に至る階段はないようだ。2階は Paramount Hotelというホテルに占められている。

 

 

Turk’s Head

 

カニンガム一行のもともとの目的地はジェイムズ・キャヴナではない(おそらくバーニーキアナンの酒場)、しかし、ヘンリーやファニングとキャヴァナの2階に入っていくのは、彼らに募金に参加することを説得するためと思われる。

 

金澤周作著『チャリティの帝国――もうひとつのイギリス近現代史』(岩波新書、2021年)を読み、英国では、国家による福祉とは別に、「民間人が自発的に他人を助ける=チャリティ」が巨大な社会制度として発達した、ということを学んだ。上流階級であろうカニンガムがディグナムの遺族の世話を焼くのは、こういう文化が背景にあるのだろう。しかしカニンガムとディグナムの関係は小説から読み取れない。

 

そういえば、通りかかった総督の騎馬行列も慈善市に向かっている。

 

今回の個所の一節、パワー氏が執行官の後ろから話しかける場面は、この小説で最も好きな一節だ。実にコンパクトな叙述なのだけど、映画的な魅力に満ちた名場面だと思う。訳はどうしてもうまくはいかない。

 

https://unsplash.com/photos/a-person-standing-on-a-stair-case-in-front-of-a-mirror-WcIrt3cV954

 

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288 (U644.1611) - 1914-1921

第288投。644ページ、1611行目。

このブログでは、乱数に基づいてランダムに『ユリシーズ』読んでいます。今回は小説の最終行、 第129 回と同じところに当たりましたのでパスです。

 

Trieste-Zurich-Paris
1914-1921

トリエステ ー チューリッヒ ー パリ

1914-1921

 

ランダムな場所で『ユリシーズ』を読み、トリエステにおけるジョイスの足跡を思い起こす

"Ulysses en un sitio aleatorio, recordando la presencia de Joyce en Trieste" by jmerelo is licensed under CC BY-SA 2.0.

287 (U314.33) - 古きケルトの驚異の医学

夫れ良史の傳ふ所に據れば

第287投。314ページ、33行目。

 

  It is not why therefore we shall wonder if, as the best historians relate, among the Celts, who nothing that was not in its nature admirable admired, the art of medicine shall have been highly honoured. Not to speak of hostels, leperyards, sweating chambers, plaguegraves, their greatest doctors, the O’Shiels, the O’Hickeys, the O’Lees, have sedulously set down the divers methods by which the sick and the relapsed found again health whether the malady had been the trembling withering or loose boyconnell flux.

 

 夫れ良史の傳ふ所に據れば凱爾特族、凡そ何事も性嘉ならざれば嘉せず、故に醫術の尊崇せられざると言ふべけんや。庇舎、癩院、蒸室、疫塚の事は言ふを待たず其の國の名醫たる歐希爾氏、歐希基氏、歐利氏等、勤めて諸法を錄し置く。病者又再發の者、其の病、震顫疾、萎凋疾或は黄瘟博涅泄疾なるを論ぜず、其の法により皆復た健康を得る処也。

 

14章。午後10時ごろ。国立産科病院の場面。その冒頭に近い箇所。

 

14章は、過去から現在に至る英語散文の文体史を文体模写でなぞる趣向となっている。この箇所は、Giffordの注釈では「中世ラテン語の散文年代記で、語法や構文を英語風にしない直訳調」にしたものという。

 

それが本当なのか、またその年代記の具体例はいかなるものなのかについては、以前検討したがいまもよくわからない。

 

 

文体

 ここではラテン語の語法や構文を英語風にしない直訳調にした、というのがどういうことなのか探ってみたい。

 

例えば冒頭のへんてこな英文

”It is not why therefore we shall wonder if,

 

これは、ラテン語 「non est cur + 接続法」といった構文を、英語に逐語訳したものと考えられる。

 

例えば以下のようなラテン語の文章を検索で見つけたのだが(注*)

Itaque non est cur miremur, si Cypriani mentionem ibidem faciat.

したがって、キプリアヌスがそこでそのことについて言及していたとしても、驚く必要はない。

 

文頭を英語にそのまま移すとこうなる。

羅 itaque / non est / cur / miremur / si

英 therefore / it is not / why / we should wonder / if

 

これは今回の個所

”It is not why therefore we shall wonder if,”

にとっても似ている。こういう風にして文章をつくっているのだ。

 

どういう作品の模写かわからないが、とにかく、英語にとってのラテン語は、日本語にとっての漢文なので、今回の個所は漢文の読み下し文風に訳した。

 

*注

17世紀のフランスのベネディクト会系学者、いわゆるモーリスト会士がアウグスティヌス全集を校訂した際に編纂した伝記「ヒッポの司教・聖アウレリウス・アウグスティヌスの生涯」より

https://la.wikisource.org/wiki/Sancti_Aurelii_Augustini_Hipponiensis_Vita

 

内容

 今回の一節で特に意味の分からないのは、“boyconnell”という単語。これを検索してみたところ、 P. W. ジョイス(Patrick Weston Joyce, 1827–1914)の 『古代アイルランドの社会史』A Social History of Ancient Ireland(London: Longmans, Green, 1903)の Chapter XIV, p.264–280 を抜粋して電子化したものが見つかった。

→ CELT

 

P. W. ジョイス はアイルランド語、地名学、民俗、音楽、歴史・古代学などを幅広く研究した人物で、Royal Irish Academy の会員でもあった。

 

この記事は、古代アイルランドでは医学が重んじられ、O’ShielO’HickeyO’Leeなどの世襲医家が医学知識を書物として伝承していたこと、当時知られていた病気・疫病とその名称、病院や癩病院などの医療施設について、薬草・瀉血・入浴・発汗療法など、当時行われていたさまざまな治療法について、解説している。今回の一節と重なるところが多いので、今回の一節はこの本を基にして書かれたに違いない。

 

今回の一節にかかわるところを抜き書きしてみる。

 

1. 医家に伝わる医学書 

p.266

These doctors obtain their medical knowledge chiefly from books belonging to particular families left them by their ancestors, in which are laid down the symptoms of the several diseases, with the remedies annexed.

 

これらの医師たちは、主として各家に属し祖先から伝えられた書物から医学知識を得ている。そこには、さまざまな病気の症状と、それぞれに対する治療法が記されている。

 

The O'Lees, to the O'Flahertys of Connaught; and the O'Hickeys, to the O'Briens of Thomond, to the O'Kennedys of Ormond, and to the Macnamaras of Clare.The O'Shiels were physicians to the MacMahons of Oriel…

 

オリー家はコノートのオフラハティ家に、オヒッキー家はトモンドのオブライエン家、オーモンドのオケネディ家、クレアのマクナマラ家に代々医師として仕えた。オシール家は、オリエルのマクマホン家に仕える医師の家系であった…

 

ここは今回の一節の主題とまさに一致している。

 

2. plaguegraves

p.270–271

The victims of a plague were commonly buried in one spot, which was fenced round and preserved as in a manner sacred.

 

疫病の犠牲者は通常一か所にまとめて埋葬され、その場所は柵で囲われ、一種の聖地として保存された。

the place of such wholesale interment was called tamhlacht, i.e. ‘plague-grave’

 

このような集団埋葬の場所は tamhlacht、すなわち「疫病墓」と呼ばれた。

plaguegravesはまさにここに由来する。

 

3. boyconnell

 p.271

the most remarkable and destructive of all the ancient plagues was the Blefed, or Buide-Connaill [boy-connell] or yellow plague

 

 古代の疫病のうち、もっとも著しく破壊的だったのが、ブレフェド、または Buide-Connaill[発音:ボイ・コンネル]、すなわち「黄疫」であった。

 

boyconnell は、この発音表記  [boy-connell]  を、そのまま英単語めかして使ったものにちがいない。

 

4. withering

p.272

Consumption was but too well known, then as now: a usual name for it was serg, i.e. ‘withering’ or ‘decaying’.

 

肺結核は、当時も今日と同様、あまりにもよく知られていた。その普通の呼称の一つが serg、すなわち「萎凋(withering)」あるいは「衰微(decaying)」であった。

 

今回の一節の withering は、おそらくこの引用符内の英訳をそのまま取っている。

 

5. trembling   

p.272

Palsy was known by the descriptive name crith-lám [crih-lauv], ‘trembling of the hands’, from crith, ‘shaking’, and lám(h), ‘a hand.’

 

麻痺は crith-lám[クリ・ラーヴ]という記述的な名称で知られていた。これは「手の震え(trembling of the hands)」の意で、crith「震えること」と lám(h)「手」に由来する。

 

trembling trembling of the hands から来ている。

 

6. flux

p.272

Diarrhoea was called in Irish buinnech, i.e. ‘flux’, from buinne, ‘a wave or stream.’

 

下痢はアイルランド語で buinnech、すなわち「流泄」と呼ばれた。これは buinne「波または流れ(a wave or stream)」に由来する。

 

flux の由来はここでしょう。

つまり、作者はこれらの単語を適当につなげて古代中世らしいもっ病名を作っているのだ。

 

7. leperyards 

p.273–274

Some were for sick persons in general; some were special, as, for instance, leper-houses. Monastic hospitals and leper-houses are very often mentioned in the annals.

 

病院には一般の病人を収容するものもあれば、特殊な病人を対象とするもの、たとえば癩病院もあった。修道院の病院や癩病院は、年代記にきわめてしばしば記録されている。

 

leperyards は、leper-houses を古めかしい複合語に変えたものだろう。

 

8. sweating chambers 

p.277–278

The structures in which these baths were given are known by the name of Tigh 'n alluis [...] ‘sweating-house’.

 

このような浴療法を行う建物は Tigh 'n alluis[ティーノリシュ]、すなわち「発汗小屋(sweating-house)」の名で知られている。

 

sweating chambersもここからでしょう。

 

『アイルランドの驚異およびアイルランドに関するその他の論文』(1911)に付されたP.W.ジョイスの肖像写真

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:P_W_Joyce.png

 

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286 (U170.824)  ー 風采のいい医師

 お前のは。やつはお前んとこのおやじを知ってる。

第286投。170ページ、824行目。

 

 

 Your own? He knows your old fellow. The widower.

 

Hurrying to her squalid deathlair from gay Paris on the quayside I touched his hand. The voice, new warmth, speaking. Dr Bob Kenny is attending her. The eyes that wish me well. But do not know me.

 

お前のは。やつはお前んとこのおやじを知ってる。あの男やもめ。

 

 華のパリから母のむさ苦しい死の寝座へと急ぐ、船着き場で触れた父の手。その声、ふと温もりがさす。ボブ・ケニー先生が看てくれている。その目はぼくに好意を向ける。でもぼくのことを知らない。

 

 

 第9章。国立図書館の一室で、副主任でエッセイストのジョン・エグリントン、副主任で学者のリチャード・ベスト、そして主人公のスティーヴンがシェイクスピアについて議論をしている。スティーヴンが、「シェイクスピアは自分を、ハムレットの父で殺された先の王に投影している」という持論を述べる。

 

スティーヴンは、エグリントンの反論を受けて、エグリントンの父親を空想する。そして、自分の父親へと連想が行く。ここは、その彼の心中の声。

 

スティーヴンをジョイスの分身とするなら、彼は小説の現在(1904616日)の1年前、母の病気のため、19034月に留学先のパリからダブリンの実家に戻った。

 

ジョイスの母、メイ・ジョイスは1903813日に亡くなった。そして父ジョン・スタニスロース(小説での対応ではサイモン)は男やもめとなったわけだ。

 

He knows your old fellow.やつはお前んとこのおやじを知ってる。」というフレーズは、ここから200行も前、図書館を訪れたブルーム氏を見たマリガンが、スティーヴンにいうセリフを思い出しての引用になっている。

 

Suddenly he turned to Stephen:

―He knows you. He knows your old fellow.

U165.613

 

だから、“He” はブルーム氏のことだ。スティーヴンは「マリガンが自分の父を知っている」という意味も重ね合わせたのではないかと思う。

 

ブルーム氏はスティーヴンの「小説上の父」であり、この日二人は接近し、夜中にブルーム氏はスティーヴンを自宅まで連れ帰ることになる。ここはその運命の予兆になっている。

 

そして約40行あとの個所につながる。父の手はしなびて頼りなかった。

 

Am I a father? If I were?

Shrunken uncertain hand.

U171.860

 

Dr Bob Kenny(ボブ・ケニー医師)とは、実在の人物なのか。検索してみると、アイルランド放送協会(RTE)の興味深い記事(2024年2月26日付)のが見つかった。

→ RTE

How the skeleton of a 106 year old Dubliner ended up in Trinity College

『ダブリン在住の106歳の男性の遺骨が、なぜトリニティ・カレッジに収められたのか」

 

要約してみると次の通り。

 

  • 記事は、トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin) に保存される ジェイムズ・コンウェイ(James Conway)約106歳の骨格を手がかりに、19世紀の解剖学と貧困者の遺体利用、その倫理的問題を論じている。
  • 1832年 解剖法(Anatomy Act) により、救貧院(workhouse) や病院で死亡し親族に引き取られない遺体を医学教育に利用できるようになった。これは解剖用遺体不足と墓荒らしへの対策でもあった。
  • コンウェイ は1782年頃生まれの労働者で、トラファルガー海戦に参加したとも記録される。1886年、104歳で North Dublin Union に医療を求めて入所した。
  • 当時の救貧院は救貧施設であると同時に、貧しい人々に医療を提供する大規模な病院としての役割を強めていた。
  • コンウェイは1889年に死亡。North Dublin Union の医師 ロバート・D・ケニー(Dr Robert D. Kenny) は、老齢にもかかわらず知的能力を保っていたコンウェイを、老化研究を行っていたトリニティ・カレッジの解剖学者(D・J・カニンガム) D. J. Cunningham に知らせた。
  • 親族が遺体を引き取らないと考えたケニー医師は、通常の解剖法の手続きを経ずに遺体をカニンガムへ提供した。そのため本来なら解剖後に埋葬されるはずだったコンウェイの骨格と脳の模型が大学に保存されることになった。
  • 記事はこれを、単なる医学史ではなく、貧困ゆえに自分の死後の身体について決定権を持てなかった人々の問題として捉え、現在もその遺骨を所蔵・展示することの倫理を問い直している。

 

トリニティカレッジ・古解剖学博物館に展示のコンウェイの骨格標本

Irish Independent・facebookより

 

メイ・ジョイスを看取った医師はこのNorth Dublin Union の医師 ロバート・D・ケニーに違いないだろう。

 

North Dublin Unionについて調べてみる。正式にはNorth Dublin Poor Law Union とは、19世紀以降のアイルランドの貧困救済を担当した地方行政単位という。以下のサイトより沿革を要約する。

 → workhouse.org

 

  • 1772年 議会法により、リフィー川北岸の North Brunswick Street House of Industry が設立され、貧民・老人・病人・浮浪者などを収容した。
  • 1838アイルランド救貧法(Irish Poor Law Act成立。
  • 183966ダブリン北部を管轄する North Dublin Poor Law Union が正式に設置された。南部は別に South Dublin Union とされた。
  • 1840年 従来の House of Industry の建物を改修して North Dublin Union Workhouse として使用開始。以後、病人・虚弱者を収容する病院部門も拡充された。
  • 1918North South の両 Union が統合されて Dublin Union となり、拠点は旧 South Dublin Union に置かれた。
  • 1920年 旧 North Dublin Union は英国軍に接収され、救貧施設としての歴史を終えた。

つまり、1772 House of Industry → 1840年ごろ North Dublin Union Workhouse → 19世紀後半に病院機能が発達 → 1918年統合 → 1920年廃止、という流れとなる。

 

ロバート・D・ケニー医師は、North Dublin Poor Law Unionの病院部門に所属した医師ということになる。没落したジョイス家は貧窮しており、メイ・ジョイスは貧民への救済を行う医療機関の世話になっていたということだ。

 

ジョイスがパリから帰還したころ、その実家はカーブラにあった。

住所は  7 St Peter's Terrace, Phibsborough(現在は6 St Peter's Road).

 

Google map street viewより

 

North Dublin Union との位置関係は下の通り。

 

〇 North Dublin Union

★ ジョイス家(小説上は、サイモン・デッダラス家)

★ 小説上のブルーム家(デッダラス家に近い)

 

New plan of Dublin and suburbs / G.W. Bacon & Co., Ltd. 1914
 

 

North Dublin Unionの写真はなかなか見つからない。古い鳥観図を付す。

Daniel Edward Heffernan's map of Dublin, 1861

 

『ジェイムズ・ジョイス伝』上巻P155リチャード・エルマン、 宮田恭子訳、みすず書房、1996年)によるとメイ・ジョイスは自宅で亡くなっており、病院に入院していたわけではない。ケニー医師は往診していたのだろうか。

 

『ジェイムズ・ジョイス伝』によると、「ジョイス夫人は明るくしようと努め、風采のいい医師に「サー・ピーター・ティーズル」とあだ名をつけた・・・」とある。この医師がケニー医師かはわからない。

 

サー・ピーター・ティーズル(Sir Peter Teazle) は、ブログの250でふれたシェリダン(Richard Brinsley Sheridan, 1751 - 1816)の喜劇 『悪口学校』(The School for Scandal1777年初演) に出てくる年配の紳士。若い妻をめとった夫で、まじめで道徳的だが、嫉妬深く、説教くさいところがある。

 

ウィニフレッド・エメリー(1861–1924)がレディ・ティーズル役、シリル・モード(1862–1951)がサー・ピーター・ティーズル役を演じる『悪口学校』ザ・スケッチ第30巻第390号、1900年7月18日、表紙

 

File:Winifred Emery (1861–1924) as Lady Teazle and Cyril Maude (1862–1951) as Sir Peter Teazle in The School for Scandal.png - Wikimedia Commons

 

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285(U110.576) - 滑稽五行詩

スティーヴンの耳元でこうささやいた。

285投。110ページ、576行目。

 

  He whispered then near Stephen’s ear:

 

LENEHAN’S LIMERICK

 

—There’s a ponderous pundit MacHugh

Who wears goggles of ebony hue.

As he mostly sees double

To wear them why trouble?

I can’t see the Joe Miller. Can you?

 

 

 

スティーヴンの耳元でこうささやいた。

 

レネハンのリメリック

 

―マッキュー先生文体荘重

瓶底眼鏡は黒檀調

視野はぼやける

なぜまたかける

合点ゆかぬの雪之丞

 

 

 

新聞社フリーマン・ジャーナル社の「イブニング・テレグラフ」紙の編集室。編集長クローフォード、弁護士オモロイ、競馬予想のレネハン、記者のバーク、古典語の教師マッキュー先生そして小説の主人公スティーヴンがいる。

 

ここはレネハンがスティーヴンに、マッキュー先生をからかう詩を披露した場面。

 

レネハンの詩はリメリック(limerick)と呼ばれる詩形。いままで文学作品をいろいろ読んできながら、英詩の詩形についてはなんの知識もない。この機にリメリックの詩形を素材に英詩について勉強してみた。まとめてみよう。

 

リメリック

リメリックとは、5行からなり、韻律としては弱弱強格(anapaest)を基調とし、125行を三韻脚、34行を二韻脚とすることを基本とし、押韻としてはAABBAの脚韻を踏む短詩形である。

 

韻律(meterとは

詩の一行のなかで、強く発音される音節と弱く発音される音節を一定の型にしたがって配置するリズムの仕組み。英詩では、音節の数だけではなく、その強弱の配置によって韻律が作られる。

 

強勢・弱勢(stressed / unstressedとは

英語の発音において、相対的に強く際立って発音される音節が強勢、そうでない音節が弱勢。たとえば ponderous PON-der-ous と、第1音節に強勢がある。詩では、こうした英語本来の強弱を利用してリズムを作る。

 

韻脚(footとは

強勢と弱勢の一定の組み合わせからなる、韻律の基本単位。

 

たとえば、弱・弱・強、という一まとまりが一つの韻脚で、この場合、弱弱強格(アナペストanapaest)という。(なお、他にパターンもありそれぞれ呼び方がある。)

 

この韻脚が一行に三つあれば三韻脚(trimeter)、二つなら二韻脚(dimeter)という。

 

脚韻(end rhymeとは

複数の行の末尾の音を響き合わせる押韻。

AABBAの場合、125行目の末尾の音が同じ、3・4行目末尾の音が同じということ。

 

それでは、各行を見ていこう。

 

1. There’s a ponderous pundit MacHugh

強勢を大文字()、弱勢を小文字(×) として切ってみると

 

there’s a PON | derous PUN | dit MacHUGH

× × ー| × × ー | × × ー

 となり、anapestic trimeter(弱弱強格三韻脚)となっている。

 

ponderous, pundit の頭韻も面白みとなっている。

  

2. Who wears goggles of ebony hue.

who wears GOG | gles of EB | ony HUE

× × ー | × × ー | × × ー

 で、 やはり、anapestic trimeter(弱弱強格三韻脚)

 

3. As he mostly sees double

 3行目と4行目は、は短い二韻脚のB行になる。

 

as he MOST | ly sees DOUBle

× × ー| × × ー

 anapestic dimeter(弱弱強格二韻脚)とみなせる。

 

4. To wear them why trouble?

to WEAR them | why TROUble?

× ー × | × ー ×

 で、弱強弱格になる。弱強弱格は、amphibrach アンフィブラック と呼ばれる。

つまり、amphibrachic dimeter(弱強弱格二韻脚)。

 

これはリメリックでは珍しくなく、実際には anapaest amphibrach がかなり自由に混ざるという。

 

5. I can’t see the Joe Miller. Can you?

I can’t SEE | the Joe MILL | er. can YOU?

× × ー | × × ー | × × ー

 で、 anapestic trimeter(弱弱強格三韻脚)にもどる。

 

押韻としては、AABBAの脚韻

つまり

125行目の末尾が、MacHugh / hue / you

3-4行目末尾が、double / trouble

で音をそろえている。

 

 ジョー・ミラー

5行目にでてくるJoe Millerにつて

 

Joe Miller 18世紀の俳優名(Joseph Miller ,1684 – 1738)だが、ミラーの死後、ジョン・モトリー(John Mottley, 1692–1750)という人が、古代から当時までの冗談を集めた本 Joe Miller’s Jests 1739年)を出版し、大流行した。その書名が古臭い冗談の代名詞になり、やがて a Joe Miller が「陳腐な笑い話」を指す語として定着した。

 

そのため、”I can’t see the Joe Miller of it.”というと、

「あなたが意図している機知がわかりません」

「面白さが分からない」

という意味となる。

 

つまり、ここは、マッキュー先生がメガネをかけている意味が分からないということかと思う。

 

さて、リメリックの訳だが、たった5行だがさんざん考えた。1、2、5行目と3,4行目を脚韻とし、1行目と5行目に人名を置くリメリックのスタイルを維持して訳を作った。

 

角縁根メガネ

マッキュー先生のメガネは、goggles of ebony hue つまり「黒檀色の眼鏡」ということで黒縁の眼鏡ということだと思うが、これはいわゆる「角縁眼鏡・つのぶちめがね」“Horn-rimmed glasses”よばれるものだと思う。

 

小説の現在、1904年ごろの角縁眼鏡とは、もちろん黒檀ではなくて、牛の骨か鼈甲製だった。そして当時の眼鏡の主流は金属フレームまたは縁なしで、角縁は少数派だった。

 

当時の角縁眼鏡を調べてみると下のようなもので、基本的には丸眼鏡だった。

 

Spectacles, straight, horn, metal hinges, probably English, Made:1800-1870
Science Museum Group

https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/objects/co151736/spectacles-straight-horn

 

 

わたしがイメージるする黒縁眼鏡といえば、マストロヤンニが掛けていた形のものだがこういう形のものは当時ない。

 

フェリーニ監督の 『8 1/2』 (1963)より

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marcello_Mastroianni_in_8%C2%BD_(cropped).jpg

 

 

角縁眼鏡は、アメリカのコメディアンのハロルド・ロイドHarold Clayton Lloyd, Sr.1893 - 1971)が1917年のコメディ短編『オーバー・ザ・フェンス』ではじめて着用し、その後世界中に広まった。そして角縁眼鏡がセルロイド製になったのは、1920年代以降のことのようだ。

 

ハロルド・ロイド(1930年代)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harold_Lloyd_(1930s)_(54410969306).jpg

 

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284 (U78.282) ー マナナーンの護る島

マーティン・カニンガムがずけずけと話に割り込んできた。

第284投。78ページ、282行目。

 

 Martin Cunningham thwarted his speech rudely:

 

 —Reuben J and the son were piking it down the quay next the river on their way to the Isle of Man boat and the young chiseller suddenly got loose and over the wall with him into the Liffey.

 

 —For God’s sake! Mr Dedalus exclaimed in fright. Is he dead?

 

 —Dead! Martin Cunningham cried. Not he! A boatman got a pole and fished him out by the slack of the breeches and he was landed up to the father on the quay more dead than alive. Half the town was there.

 

 —Yes, Mr Bloom said. But the funny part is.....

 

 マーティン・カニンガムがずけずけと話に割り込んできた。

 

 ―ルーベン・Jと息子はマン島行きの船に乗ろうと、川沿いの河岸通りをすたこら急いでたんだが、そのガキが突然逃げ出して壁を乗り越えリッフィー川へ飛び込んだのさ。

 

 ―なんだって、デッダラス氏がびっくりして叫んだ、で、死んだか。

 

 ―死んだかだと、マーティン・カニンガムが大声で言う、とんでもない。船頭が竿を持ってきてズボンのたるみをひっかけて釣り上げた、それで河岸の父親のとこへ陸揚げされたんだが気息奄々。町の半分が目撃したよ。

 

 ―そう、ブルーム氏が言った。でも笑えるのは・・・

 

第6章。午前11時ごろ。ブルーム氏は友人のディグナム氏の葬儀に参列するため、ダブリンの南東に位置するディグナム家から、馬車で市の北西のはずれ、グラスネヴィン墓地まで街を縦断している。馬車には、スティーヴンの父サイモン・デッダラス、警察隊に勤務するジャック・パワー、アイルランド総督政庁に勤務するマーティン・カニンガム、そしてブルーム氏の4人が乗っている。

 

サックヴィル通を北上するところでユダヤ人の金貸しで弁護士ルーベン・J・ドッドの姿が見えた。ブルーム氏はルーベン・Jにかかわるゴシップを披露しようとするが、カニンガムが遮って代わりに話してしまう。その場面。

 

ルーベン・Jの息子はなにかの女性問題があり、父親は息子を女から引き離すためマン島に連れて行こうとした。

 

マン島は、グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する島。マン島は小説の現在(1904年)も今も英国の一部ではなく英国王室に属する自治領との位置づけ。マン島はダブリンの人にとっては夏のリゾート地だった。

 


Ferry/shipping routes from England and Scotland to Ireland. BARTHOLOMEW 1901 map

 

ルーベン・Jが息子を連れて、マン島に行くというのは、「女から遠ざける」 → 「父親が監視する」 → 「しかし表向きは夏の休暇旅行」と、こういう意味であったと推測できる。

 

さて、本文の読解にはほとんど関係ないのだが、気になることを調べてみた。

 

マン島へ行く船はダブリンのどこから出航したのか

当時のガイドブック

A Pictorial and Descriptive Guide to Dublin and the Wicklow Tours(1919年)

を見ると次の記載がある。(本文P17)

→ archiev.org

 

In the summer the Isle of Man Steam Packet Co. run a direct service three times a week between Dubhn (City Quay) and Douglas.

夏の間、マン島スチーム・パケット社は、ダブリン(シティ河岸)とダグラス間を週3便の直行便を運航しています。

 

ダグラスはマン島の首都。そのため、少なくとも「シティ河岸」(City Quay)からマン島スチーム・パケット社の船が出ていたことがわかる。

 

マン島に行く船とはどんな船だったか

マン島スチーム・パケット社に1904年の時点で所属していた船を調べてみると、少なくともMona’s Isle 3 (1882年から1915年)、Mona’s Queen 2 (1885年から1924年)が該当することがわかった。

→ simplonpc.co.uk

 

Wikipediaの記事によると少なくともMona’s Isle 3はダブリンーマン島間に就航していた可能性が高い。

 

ジョージ・ネルソンの油彩画、モナズ・アイル(1886年)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:George_Nelson_(1821-1905)_-_%27Mona%27s_Isle%27_-_L22226_-_House_of_Manannan.jpg

 

ルーベン・Jの息子はどこで川に飛び込んだのか

 

ルーベン・Jの自宅はオーモンド河岸にある。もちろんこの時ルーベン・Jと息子は自宅から出たとは限らない。しかしそう仮定すると、オーモンド河岸から、シティ河岸までのどこかの河岸から飛び込んだと考えられる。

 

ルーベン・J・ドッド家 シティ河岸

The Story of Dublin by D. A. Chart, London: J. M. Dent, 1907.

 

Google Street Viewで見ると、オーモンド河岸には確かに手すり壁 (parapet) 的な低い壁がある。これなら飛び越えられそうだ。

 

 

1904年当時、オーモンド河岸からシティ河岸まで壁があったのだろうか。

 

まず北壁から、西から東へ、古い写真をみてみよう。

 

Ormond Quay

Ormond Quayの古い写真は見つからない。これ(対岸からの眺め)によるとどうも現在あるような壁があるようだ。

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000168548

ca.1897-1904

 

Bachelor‘s Walk

これによるとオコンネル橋までは壁がある。

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000747267

 

Eden Quay

オコンネル橋の向こう(奥のほう)、Eden Quayには壁がある。対岸Burgh Quayにも壁がある。

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000747718

between ca. 1865-1914

 

Custom House Quay

Custom Houseの前には壁がない(手すりになっている)

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000029774

between 1880-1900

 

それでは南岸

 

Wellington Quay

グラタン橋から東(手前側)には壁がある。

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000041376

between 1880-1900

 

Aston Quay

オコンネル橋までのAston Quayには壁がある。

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000290811

 

Burgh Quay

バット橋までのBurgh Quayには壁がある。(まだループ線がない時代の写真)

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000067407

between ca. 1880-1900

 

George Quay

Custom Houseの対岸のGeorge Quayには壁がないようだ。(左下隅を見よ!)

https://www.historicalpicturearchive.com/shop/pictures/custom-house-river-liffey-dublin-co-dublin-ireland-old-irish-photograph-c1900-du-00246/?utm_source=chatgpt.com

c1900

 

City Quay

City Quayには船が着岸するのだから、壁はない。

https://catalogue.nli.ie/Record/vtls000316195

between ca. 1865-1914

 

ということで、下の地図で示した青線の区間の河岸には低い壁があった。(なお南北岸ともさらに西のほうには壁があったと思われるが調べていない。)

 

 

ルーベン・Jは自宅()を出て、グラタン橋、メタル橋、オコンネル橋、バット橋のどれかを渡って南岸にわたり、シティ河岸()から乗船する想定をしていたが、その途中の青線の区間の河岸のどこかで息子が川に飛び込んだと考えられる。

 

1900年ごろのダブリンでは、バット橋より西の河岸は、市街地の道路という性質をもっていて歩道から落ちないよう川べりに低い壁が設けられていたが、バット橋から東の河岸は、港として、乗客の昇降、貨物の揚げ降ろしのための機能を担っていたということがわかる。

 

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283 (U178.1177) - お山育ちの藪鶯は

滑らかに声調を変化させてバック・マリガンは手帳を読んだ。

第283投。178ページ、1177行目。

 

 In sweetly varying voices Buck Mulligan read his tablet:

 

Everyman His Own Wife

or

A Honeymoon in the Hand

(a national immorality in three orgasms)

by

Ballocky Mulligan.

 

 He turned a happy patch’s smirk to Stephen, saying:

 

 —The disguise, I fear, is thin. But listen.

 

 He read, marcato:

 

 

 滑らかに声調を変化させてバック・マリガンは手帳を読んだ。

 

よろづのをとこ おのがつまかたぎ

万夫皆己妻気質

又は

手の中の蜜月

(三幕濡場の国民艶劇)

狸玉亭マリガン

 

 陽気な道化の笑みをスティーヴンに向けて言う。

 

 ―仮装はあいにく明け透けなようだが、まあお聞きあれ。

 

 逐音強勢で読み上げた。

 

第9章の終盤。主人公のスティーヴン、友人バック・マリガンは、図書館の面々と、シェイクスピアについて論議をしたあと、図書館の大階段を下りて玄関ホールに至る。そこでマリガンが道化役者のための芝居を考えたといって披露する。

 

マリガンはアイデアを “tablet” に書きつけているようだ。

 

“tablet”の意味は、書字版、石板など、いろいろあるが、ここはこれだろう。

“A block of several sheets of blank paper that are bound together at the top; pad of paper.”

「上部が綴じ合わされた、数枚の白紙が束になったもの。メモ帳。」

→ wiktionary

 

 

マリガンの思いつた芝居のふざけたタイトルの元ネタについて、考えてみる。

 

Everyman His Own Wife

 

まず、Everyman は、15世紀後半から16世紀初頭、匿名イギリス人作家による道徳劇『エヴリマン』からきているだろう。ジョン・バニヤンの『天路の進路』と同様に『エヴリマン』は寓意的な登場人物を用いてキリスト教の救済の問題を取り扱う。

 

ついで、17世紀以来大量に書かれた

Every Man His Own Gardener

Every Man His Own Lawyer

Every Man His Own Doctor

のような Every Man His Own ... という実用書の題名をもじっている。

 

下に掲げるのはその一例。

Every man his own doctor, or, The poor planter's physician (1734)

→ archieve 

「誰もが自分自身の医者である」という意味で、医学の実用書となっている。

 

マリガン作の Everyman His Own Wife は、「誰もが自分妻の役を務める」ということだから、自慰を暗示している。

 

ここは歌舞伎のタイトルのように訳してみた。

 

or A Honeymoon in the Hand

 

タイトルを「または」で繋ぐのは、昔の書籍や戯曲によくあるスタイル。

 

「手の中の蜜月」ということで、やはり自慰のことをほのめかしている。

 

また英語のことわざ、

“A bird in the hand is worth two in the bush.”

「掌中の一羽は叢中の二羽に値する。」

を踏まえていえる。

 

ちなみに、第14章、バニアン風文体の断章には、“Bird-in-the-Hand ”と ”Two-in-the-Bush” という人物が登場する。

 

(a national immorality in three orgasms)

 

国家の歴史・建国神話・英雄像を舞台化し観客に「国民としての物語」を共有させるための劇ナショナル・ドラマ(National Drama)というものが19世紀に多く作られた。そのタイトルが、よくa national drama, in three actsとの体裁をとったので、そのパロディになっている。

 

一例としては、アメリカのものだが、こういうもの。

Pocahontas; or, The Settlers of Virginia. A National Drama, in Three Acts.

By G. W. P. Custis (1830)

→ wikisource

 

1900年前後のアイルランド文芸復興でも、「National Drama(国民劇)」という言葉自体が流行語となっていたので、これを茶化している。

 

Ballocky Mulligan.

 

”Buck” (鹿、山羊、兎などの雄)はマリガンのあだ名だが、それをもじっている。

“ballocks”には、 睾丸、ナンセンスの意味。

“bullock”は、去勢牛の意味、この辺りをかけていると思われる。

 

江戸の戯作者風に、狸玉亭と訳した。「たぬきたまてい」とよむと「抜き玉」が入って面白いでしょ。

 

リヴァプールのエヴリマン劇場

"Everyman Theatre, Liverpool 2018" by Rodhullandemu is licensed under CC BY-SA 4.0.

 

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