あのひととおなじくらい彼がすきだと思ったそして
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I thought well as well him as another and then I asked him with my eyes to ask again yes and then he asked me would I yes to say yes my mountain flower and first I put my arms around him yes and drew him down to me so he could feel my breasts all perfume yes and his heart was going like mad and yes I said yes I will Yes.
Trieste-Zurich-Paris
1914-1921
あのひととおなじくらい彼がすきだと思ったそして目で求めたもういちどきいてとそしたらうん彼がきいたわたしがいいわうんというかどうかぼくの山に咲く花よそしてわたしは彼をだきしめてうん引きよせたわたしの胸とにおいを感じられるようにうん彼の心臓はどきどきしてきてうんわたしはうんいいわと答えたうん。
1914-1921
『ユリシーズ』は1904年6月16日の出来事を描き、6月16日は小説の主人公にちなんでブルームズ・デーよばれる。今日は小説の出版(1922年)から101年目のブルームズ・デー。
今回は『ユリシーズ』の最後の行に当たりました。ブログの第26回の数行あとに当たる小説の終結部。
ブルーム氏の妻、モリーはホウスの丘でブルーム氏に求婚され、それに応じたことを思い出す。他の男と同じくらい彼が好き、というのが、この小説の味わいだろう。
ブログの第12回で触れたように、ジョイスは第18章で”yes”を多用していて、小説の最後の単語も”yes”。モリーの心中の声なので、口癖のようなものだろう、だから「うん」と訳した。
小説の最後の単語は ”yes” 小説の最初の単語は "Stately" でそれぞれの単語は最初と最後の文字が逆になる。蛇は自分の尻尾を口にくわえる。
(P.222 リチャード・エルマン『リフィー河畔のユリシーズ』和田旦、加藤弘和訳、国文社、1985年)
Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed. (U3.1-)
「トリエステーチューリッヒーパリ」とはジョイスが『ユリシーズ』を執筆した都市。
実際にいつどこで書きはじめ、書き終えたか。1921年11月1日、支援者で出版者主のウィーヴァ―宛ての手紙によれば、1914年の3月1日に着手され、1921年の10月30日に完了したという。(P.647 リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』 宮田恭子訳、みすず書房、1996年)1914年以降の彼の住所を当伝記から拾ってみた。
小説に着手したとき、彼はオーストリア=ハンガリー帝国(現在はイタリア)のトリエステにいた。
①1912年10月1日~ ドナト・ブラマンテ通り4番地(Via Donato Bramante, 4)
②1915年6月末~ ガストハウス・ホフヌング(Gasthaus Hoffnung)
③1915年7月~ ラインハルト通り7番地(Reinhardstrasse, 7)
④1915年10月15日~ クロイツ通り10番地(Kreuzstrasse, 10)
⑤1916年3月~ ゼ―フェルト通り54番地(Seefeldstrasse, 54)
⑥1917年1月~ ゼ―フェルト通り73番地(Seefeldstrasse, 73)
⑦1918年1月~ ウニヴェルジテート通り38番地(Universitatstrasse, 38)
⑧1918年10月~ ウニヴェルジテート通り29番地(Universitatstrasse, 29)
いったんまたトリエステへ
⑨1919年10月中旬~ サニタ通り2番地(Via della Sanità, 2)
パリへ移住
パリ
⑩1920年7月8日~ リュニヴェルシテ通り9番地のホテル(9 rue de l'Universite)
⑪1920年7月15日~ アソンブシオン通り5番地(5 rue de l'Assomption)
⑫1920年12月~ ラスパーユ通り5番地(5 Boulevard Raspail)
⑬1921年6月3日~ カルディナル・ルモワヌ通り71番地(71 rue du Cardinal Lemoine)
⑭1921年10月~ リュニヴェルシテ通り9番地のホテル(9 rue de l'Universite)
おどろいたことに8年の間に13回引っ越している。1年に1回以上引っ越ししていることになる。このような「世界そのもの」のような小説をこのように移動しながら書けるものなのだろうか。資料などどうしたのだろう。
小説を書き終えたのはリュニヴェルシテ通り9番地のホテルということになる。⑩と同じ住所。なぜここに住んだかというと、フランスの詩人、小説家、ヴァレリー・ラルボー(Valery Larbaud、1881 - 1957)がイタリアへ出かけるので⑬の住居の提供をうけたのだが、彼が帰ってきたため。それでパリではじめに住んだ⑩のホテルへ入ったのだ。
もともとなぜ⑩に住んだかというとジョイスがパリに来た時、詩人のエズラ・パウンド(Ezra Weston Loomis Pound、1885 - 1972)がボーヌ通り9番地(9 rue de Beaune)のホテル・エリゼに住んでいたので、その近くのホテルを紹介されたからという。(P.597『ジェイムズ・ジョイス伝』 )
▲ ホテル・エリゼ
★ リュニヴェルシテ通り9番地のホテル
Plan commode de Paris métropolitain et nord-sud, 1925 - Stanford Libraries
現在リュニヴェルシテ通り9番地には Hotel Lenox Saint Germain というホテルがある。ジョイスが住んだホテルそのものではないだろう。彼が住んだことを記念するプレートのようなものも設置されていないようだ。
Hotel Lenox Saint Germain
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