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ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

『ユリシーズの食卓』 ー 番外編

イギリス料理はまずいのか

小説『ユリシーズ』でに出てくる食事を読解するために、いろいろ参考になりそうな本を読んだのだが、イギリスの料理を論じると、必ずイギリス料理はまずいのか、まずくないのか、という話になる。おもしろいので、議論を抜き書きして並べてみる。

 

林望イギリスはおいしい(文春文庫1995年)

 

作家、エッセイスト林望氏のデビュー作『イギリスはおいしい』は、イギリス料理がいかにまずくて、いかにおいしいかについて一冊を費やした本といっていいい。冒頭で林氏はイギリスの食事がまずいことを認める。

 

イギリスの食事が、概してまずいことは世界の定評であって、さすがイギリスを愛すること人並以上の私も、このことは遺憾ながら「ある意味で」認めざるを得ない。

 

イギリスの料理がどうしてかくも評判が悪いか、そのことについては考えておく必要があるかもしれない。

 

林氏は、イギリスの料理には2つの欠陥があるという。①塩加減がわるいこと、②テクスチュア(食感)に鈍感なこと。まずさを分析した論はめずらしい。

 

イギリスの料理には、大きく二つの欠陥が有ることがわかる。その第一は塩気についての、そして第二にテクスチュアについての無神経である。

 

いずれにせよ、こういう風に塩の加減が不安定なのは、コックが全く味を見ないか、もしくは味を見てもよくわからないか、のいずれかである。

 

イギリス人はじつに無造作というか、むしろ「テクスチュア音痴」と評した方が適切なくらい、特に野菜のテクスチュアに無頓着である。

 

イギリス料理の弱点を押さえた上で、イギリスにはおいしいものもたくさんあるという。それを紹介するのがこの本の主要な部分となっている。

 

曰く、リンゴ、ルバーブ、鯖の燻製(『ユリシーズ』にも登場するキッパーではない)、鱈子の燻製(鱈子はブルーム氏の好物だった。)そしてパン。

 

また、林氏は、料理はまずいが、イギリスの食材は優れているという。

 

「料理」ではなくて、その「素材」について言うならば、日本とくらべてもどことくらべてもおいしいものがイギリスには少なからずある。

 

「料理」のまずさと「食べ物」の良し悪しを混同してはならない。

 

②出口保夫、林望『イギリスはかしこい』PHP文庫2000年)

 

英文学者の出口保夫氏と林望氏が交互に英国について語ったエッセイ集。

 

出口氏はややりイギリスの料理がまずいことはみとめたうえで反論を述べる。要はイギリス人は食事で、マナー、雰囲気、社会性、つまりは会話を重視するのだという。

 

イギリス料理は、フランス料理や中国料理より味覚の点で上等とは残念ながら言えない。しかし総合的に考えると、かならずしもイギリス人一般の食事が貧しいとは言えない。

 

なぜかと言えば、イギリス人は食事をただ味覚的においしく食べるだけのもの、とはとらえていないという面があるからだ。

 

林氏はこの本では、①とはまた別のことを述べている。

 

イギリス料理がまずいということは一面的なものの見方である。なぜなら、ちょっと食べてみるとまずいかもしれないが、食べ続けてみればそのうちおいしくなるかもしれない

 

林氏は、イギリスに住み始めた頃、招かれた食事の席でだされたステーキ・アンド・キドニーパイのアンモニア臭には閉口した。しかしイギリス人にはいい香りなのだという。つまり食べ物の味は慣れなのだという。

 

ステーキ・アンド・キドニーパイは『ユリシーズ』でリチー・グールディングが食べていた料理だ。

 

林氏はさらに、イギリス料理の本領は家庭料理にあるという。

 

イギリスは家庭料理の国だということだ。

 

イギリス料理を論じるためには、基本的に家庭料理を食べなくてはいけないのである。

 

ジョージ・オーウェル「イギリス料理の弁護」In Defence of English Cooking(1945年)『一杯のおいしい紅茶』小野寺健訳(中公文庫 2020年)収録

 

イギリスの作家、ジャーナリストで『1984年』の著者、ジョージ・オーウェルGeorge Orwell、1903- 1950)には、紅茶やパブやイギリス料理についてのエッセイがある。

 

オーウェルはイギリス料理がまずいと言われていることは認めるが、まずいということは否定している。

 

イギリス料理が世界最低だというのは定評があって、第一、イギリス人自身がそう言っている。

 

だが、これが嘘であることははっきりしている。長いあいだ外国暮らしをした人ならわかっていることだが、英語圏でなければぜったいに手に入らない美味しいものはじつに多いのだ。

 

そして、彼は美味しいものがあるとして、美味しいと考えるものを次々と挙げていく。

 

キッパー、ヨークシャー・プディングを含むいろいろなプディング、ケーキ類、ビスケット。

 

さらに上等のイギリス料理は家庭料理であり、旅行者にはわかりにくいのだという。②の林氏と同じ論である。

 

上等のイギリス料理には個人の家庭以外ではまずお目にかかれないということである。

 

④横川信義「イギリス風物誌」(垂水書房1958年)

 

横川信義氏は、毎日新聞社記者でロンドン特派員をつとめた。横川氏がイギリスの衣食住について紹介した本。横川氏はイギリス料理がおいしくないことは認めている。

 

イギリス料理がまずいことは英国人も認めており、一種のインフェリオリティ・コンプレックスをもっている。その証拠にちょっと高級な料理店になると、大ていメニューがフランス語で書いてある。

 

大体において英国人は英国本来の料理はダメで、フランス人やイタリア人、中国人などの方が料理の才があると考え、アングロ・サクソン人は料理が下手だと諦めている。一方俺達はそんな料理のことなどは気にしないのだ、天下国家を治めるのが俺達の仕事で俺達はそれに専念さえしていればいいのだという気負いもある。だからいつまでたってもイギリス料理はおいしくならない。

 

そのうえでおいしいものがないわけはないという。つまり基本は①③とおなじ論。

 

スモークドサーモン然り、ローストビーフ然り、牡蠣然り。

 

吉田健一「英国の料理」(初出年不詳)『英国に就て』(ちくま文庫 1994年)収録

 

文芸評論家、英文学翻訳家、小説家の吉田 健一氏(1912 - 1977)はいくつものエッセイで英国の料理のことを書いている。

 

吉田氏はこのエッセイで英国の料理がまずいとということを断言せず、良い所を挙げている。まず、英国の料理は材料がよいという。これは①とおなじ。

 

英国の料理がまずいということは、フランスの料理が旨いというのと同じくらい、常識になっている。

 

つまり英国の料理はフランスから来たので、英国でも旨いものはフランス風の料理なのである。

 

しかし何風でも、英国の料理の特徴というと、材料が優れているということで、これはフランスと英国の国情の違いから来ているのではないかと思う。

 

なぜ食材が優れているのかについて論じている。これは傾聴に値する。

 

フランスは悪政の結果度々飢饉が起こったのでなんでも食べる必要があって料理方法が工夫された。英国は貴族と農民が一つになって文化を築いたので品種の改良がおこなわれ、その素材を生かすことを狙った料理となったのだという。

 

そこへいくと英国は、フランスと同様に農作物にも海産物にも恵まれている上に、政治の面でフランス程は極端なことが行われず、その上に英国人が食いしん坊ときているから、家畜の品種の改良や漁業に力を入れて、牛肉、羊肉からハム、ベイコンの類に至るまでおそらくヨオロッパ一のものを常用してきて、また英国の牡蠣やひらめも有名である。それで英国独特の料理法としては、材料のもとの味をなるべき生かして食卓に供する技術が発達した。

 

今日の英国の経済では、たとえば優秀な牛の品種は種牛に輸出し、自治領産の劣等で廉価な牛肉や羊肉で我慢するという風なことが行われている。

 

吉田健一「食べものと飲みもの」(1953年)『英国に就て』(ちくま文庫 1994年)収録

 

⑤の論の延長で、英国人は日常食べるものを旨くしようというやり方をとったという。

 

我々は何も毎日、御馳走を食べているものではないから、毎日食べるものをなるべく旨くしようというやり方である。

 

英国人程、朝の食事の献立に力を入れてきた国民はないだろうと思う。

 

英国のベエコンを褒め、さらにこう付け加える。

 

同じ肉料理でももう少し凝ったものになると、牛の腎臓を菌と一緒に焼いて、トオストに載せて出すのがある。

 

「菌」とはマッシュルームのことだろう。これは、『ユリシーズの食卓』その1でふれたデヴィルド・キドニーのことだろう。『ユリシーズ』でブルーム氏のたべる朝食にとても近いものだ。

 

お茶の時間にたべるものも旨いという。スコオン、サンドイッチ。

 

英国のお茶のご馳走に、胡瓜のサンドイッチがある。・・・噛んでいると、眼の裏に緑色の芝生が拡がり、緩慢に流れて行く河の水面に白鳥が二三羽浮かんでいるのが見える趣向になっている。

 

胡瓜のサンドイッチ

 

吉田健一「英国人の食べもの」(1958年)『英国に就て』(ちくま文庫 1994年)収録

 

ここでも⑤の論をよりくわしく述べているが省略。特に吉田氏らしい文体の文章を引いておく。

 

英国人の食べものは今日でも、何より先ず材料がいい。例えばハムが旨いので、英国でハムを食べるとハムというものの匂いがする。

 

英国のパンも、麦の匂いがする。英国のトオストが旨いのは、パンを扱うのにトオストを作る以外に脳がないからではなくて、パンも本当に旨ければ、これをただ焼いてバタを付けて食べるのが一番そのパンという材料に適した食べ方だからなのである。

 

 

⑧小野塚知二「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」文藝春秋Special 世界近現代史入門』(2017年)収録

 

東京大学教授で経済学者の小野塚知二氏は、なぜイギリス料理がまずくなったのかを論じている。昔はうかまかったが、まずくなったというわけ。まずくなった理由を述べている議論は貴重だ。

 

うまい/まずいの基準として、(1)食材の多様性、(2)食材の在地性・季節性、(3)調理方法の多様性、という3つの指標を立てる。なお、こうすると「食材がおいしい」という論は救われない。

 

イギリス料理はまずいとしばしば言われる。

 

うまい/まずいは直接的には個人の好みであって、食の属性ではない。うまい/まずいといった主観的な印象評価を離れて、食を客観的に分析するため筆者は、食材の多様性、食材の在地性・季節性、調理方法の多様性という3つの指標を設定した。

 

19世紀前半の数十年間に食材多様性が著しく低下し、在地性が(それゆえ食材の季節性も)ほぼ消滅した。19世紀中葉以降のイギリスの食は大量生産可能な農業牧畜産品、トロール漁業産品と、工業製品で占められるようになる。・・・また調理方法も単純化した。

 

19世紀中葉以降に、なぜ「まずく」なったのか。論旨をまとめると。

 

  • 産業革命に先立ち農業生産性を向上させる農業革命が行われた
  • 資本主義的農業経営により、「村」と「祭り」がなくなった
  • 年間を通じた生活の場としての農村が消滅、そして小農の菜園、庭畑の荒廃が食材の多様性を消滅させた。
  • さまざまな祭礼や祝宴が消滅し、食材の在地性、季節性が喪失した
  • 富裕層のための料理人は下層階級か中産階級の下層の出であるが豊かな食を経験し、能力を発揮する機会が失われた。それにより調理の基準が衰退した。

 

ちなみに、19世紀中葉以降あらたに(または大量に)使われ始めた食材として以下が挙げられてる(これがすべてではない)。これらは『ユリシーズ』に登場する食べ物だ。

  • 瓶詰杏ジャム
  • ソーセージ
  • ベーコン
  • ハム
  • トロール漁業産品としてのタラ、カレイ

 

前回のブログ(その5)で、『ユリシーズ』ではアイルランドの地方色ある食べ物が食べられているわけではないと書いたが、小野塚氏の説を参考にすると、英国の産業革命、農業革命で、19世紀中葉にアイルランドを含めて英国の食が画一化してしまったということかもしれない。

 

19世紀の蒸気駆動のトロール漁船(1924年

 

⑨コモナーズ・キッチン『舌の上の階級闘争リトルモア2024年)

 

モナーズ・キッチンは大学教諭の小笠原博毅氏、農家の栢木清吾氏、パン屋のミシマショウジ氏からなる集合名。

 

彼らは⑧のように、不味さの原因を分析することをまっこうから否定する。

 

イギリス料理は不味い。このほとんど病理学的にも聞こえる常套句を真に受けて、その「不味さ」の理由まで辿ろうとする人間まで出てくるから始末が悪い。

 

われらコモナーズ・キッチンは、何が「美味い」とか「不味い」とか、そんなことを自明視しない。

 

料理を作って、食べて、考えて、イギリスの階級を理解し、その分断を破壊しようという。

 

火を通したものも生のものも、それらの甘み、苦み、渋み、酸み、旨みのすべてを通じて、すでに分断されてしまっている現実を舌で味わい、歯で噛みしめ、胃袋で思い知ろう

 

吉田健一『英国の近代文学(1964年刊 岩波文庫1998年)

 

最後に、もう一度、吉田健一氏の文章から。『英国の近代文学』の「Ⅺ ジョイス」の章で、吉田氏は『ユリシーズ』を論じていて、これはぜひ読むべき、この小説の出色の評論だと思う。

 

彼の頭にはいつもこの現実をどう評価するかという問題があった訳で、それが泥と決まってから、彼の筆致は生彩を放つことになった。「ユリシイズ」のかなり初めの方に、レオポルド・ブルウムが自分で牛の腎臓を焼いて朝の食事をするところがある。

 

彼とはジョイスのこと。このあと、第4章のブルーム氏の食事の場面の引用があって、こう述べる。ちなみにブルーム氏が食べるのは豚の腎臓であって牛ではない。

 

これでブルウムが確かに牛の腎臓を焼いたので朝の食事をしていることが解って、それと同時に、人間がものをたべているのを描写した文章でこのように何か薄汚い感じがするのは珍しい。

 

薄汚い感じがするといわれて衝撃を受ける。吉田氏は腎臓の料理がまずいとっているのではない。⑥の引用で示したとおり、さすが吉田氏は腎臓の料理を知っていて評価していることがわかる。薄汚さの描写が生彩を放っているといっているのだ。

 

読者は、ブルーム氏が朝食に腎臓を食べることに驚くべきではなくて、そのありさまの薄汚さに驚くべきなのだ。