Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

196 (U171.891) ー シェイクスピアの兄弟

―話が込み入ってきたな、とジョン・エグリントン。

 

第196投。171ページ、891行目。

 

 —The plot thickens, John Eglinton said.

 

 The quaker librarian, quaking, tiptoed in, quake, his mask, quake, with haste, quake, quack.

 

 Door closed. Cell. Day.

 

 They list. Three. They.

 

 I you he they.

 

 Come, mess.

 

 

 ―話が込み入ってきたな、とジョン・エグリントン。

 

 クエーカーの図書館長が、くらっと、つま立ちで入って来た、面くらくら、慌てて、くわっくわ。

 

 戸が閉まる。この部屋。この日。

 

 みな聞く。みたり。みな。

 

 われ、なれ、かれ、みな。

 

 やったれ、よったり。

 

第9章。国立図書館の一室で、図書館の副主任でエッセイストのジョン・エグリントン、副主任で学者のリチャード・ベスト、主人公のスティーヴンがシェイクスピアについて議論している。来客(ブルーム氏)の対応のためいったん部屋から出ていた図書館主任のウィリアム・リスターが戻ってきた所。ここはエグリントンの台詞とスティーヴンの思考。

 

リスター館長がクエーカー教徒であることはブログの第113回で述べた。

 

”list” は ”listen” (聞く)。

 

ハムレット』第1幕第5場、ハムレットの父の亡霊の台詞から来ている。

 

But this eternal blazon must not be

To ears of flesh and blood. List, list, O, list!

If thou didst ever thy dear father love--

 

さもあれ冥府の一大事は、人間の耳には伝へがたし。

聞けよ聞けよ、おお、聞けよ!

まこと亡き父を愛する心切ならば。・・・・

坪内逍遥 訳)

 

さて、“mess”が難しい。

 

普通は「混乱、めちゃくちゃ」という意味だが wiktioary を見ると他にもいろいろな意味がある。ここは下の意味を含めていると考えられる・

 

“A set of four (from the old practice of dividing companies into sets of four at dinner).”

「4人組(昔の慣習で、夕食時には人々を4人組に分けていたことに由来する)

 

4人とは誰か、まず、ここにいる4人、エグリントン、ベスト、リスター館長、そしてスティーヴンのことと考えられる。

 

また、スティーヴンはこれからシェイクスピアの兄弟のことを論じようとしている。ウィリアム・シェイクスピアにはギルバート(Gilbert)、エドマンド(Edmund)、リチャード(Richard)3人の兄弟がいるので、彼ら4人のこととも考えられる。

 

シェイクスピア家系図

https://www.shakespeare.org.uk/education/teaching-resources/shakespeare-family-tree/

 

 

 

マルクスブラザーズ(1930年)
"The Marx Brothers, 1930" by Movie-Fan is licensed under CC BY-NC-SA 2.0.

 

 

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195 (U27.302) ー スポーツ・オブ・キングス

ティーヴンはやんごとなき御前にそっと座った。

 

第195投。27ページ、302行目。

 

 Stephen seated himself noiselessly before the princely presence. Framed around the walls images of vanished horses stood in homage, their meek heads poised in air: lord Hastings’ Repulse, the duke of Westminster’s Shotover, the duke of Beaufort’s Ceylon, prix de Paris, 1866. Elfin riders sat them, watchful of a sign. He saw their speeds, backing king’s colours, and shouted with the shouts of vanished crowds.

 

 スティーヴンはやんごとなき御前にそっと座った。周囲の壁にずらり額装されているのは在りし日の名馬、忠誠の立ち姿。その首は従順にポーズを決めていた。ヘイスティング卿のレパルス、ウェストミンスター公爵のショットオーヴァー、ボーフォート公爵のセイロン、1866年パリ賞受賞。小人みたいな騎手が乗馬し合図に身構える。王の旗に賭け、疾走を見守る、かつて在りし観衆とともに歓声をあげる。

 

 

第2章。朝の10時ごろ。スティーヴンは私立学校で教師の仕事をしたあと、デイジー校長の書斎で給料をもらったところ。

 

小説の現在(1904年)のアイルランドを含む英国の王様はエドワード7世(1901年即位)だが、デイジー校長の部屋にはスコットランドのキルト衣装を着たエドワードの肖像が掲げられている。ただし王の皇太子時代の肖像。

 

"the princely presence"とは「皇太子の肖像」であり「デイジー校長」のことであると思う。

 

エドワード 7 世のオートクローム画像(1909 年 9 月)

File:1909 Edward VII autochrome.jpg - Wikimedia Commons

 

デイジーの書斎には競馬の競争馬の絵か写真が飾られている。物語的には馬は富と権力の象徴としてあるのだが、実際になぜ校長が馬の写真を飾っているのか私には分からない。

 

競馬はイギリスで貴族のスポーツとして始まり王室の擁護のもとに発展した。王侯貴族などの有力者が馬を保有し、成績が優秀だった速い馬の血統を残していくことで現在に至る。

 

ヘイスティング卿とは、第4代ヘイスティングズ侯爵ヘンリー・ウェイズフォード・チャールズ・プランタジネット・ロードン=ヘイスティングズ(Henry Weysford Charles Plantagenet Rawdon-Hastings, 4th Marquess of Hastings、1842 - 1868)。イギリスの貴族、資産家、馬主。ダービーに大金を賭けて妻の元婚約者に敗北し莫大な負債を負ったまま失意の死を遂げたという。

 

レパルスと思われる画像

Sporthorse-Data

 

ウェストミンスター公爵は、初代ウェストミンスター公爵ヒュー・ルーパス・グローヴナー(Hugh Lupus Grosvenor, 1st Duke of Westminster、1825 - 1899)。イギリスの貴族、政治家、馬主。

 

この日(1904年6月16日)ロンドンのアスコット競馬場金杯レース(Gold Cup)で本命だったが3着となったセプターは彼の生産馬。(このブログの第142回

 

ダービー勝者ショットオーバーの彩色版画。

イラストレイテッド ロンドン ニュース 1882 より

File:Shotover.jpg - Wikimedia Commons

 

 

ボーフォート公爵は、第8代ボーフォート公爵ヘンリー・チャールズ・フィッツロイ・サマセット(Henry Charles FitzRoy Somerset, 8th Duke of Beaufort、1824 - 1899年)はイギリスの貴族、軍人、保守党の政治家。二度にわたりヴィクトリア朝期の主馬頭を務めた。

 

セイロンと思われる画像

Sporthorse-Data

 

国王であるエドワード7世自身も、皇太子の頃から競馬に熱中し競走馬の生産、所有に打ち込んだ。競走馬の馬主と生産者して良績を残し、1909年に歴代のイギリス王のうち唯一、国王としてダービーに優勝している。その馬はミノル(Minoru)といって日本人の名前に由来する。

→ wikipedia エドワード7世と競馬

 

ミノルの画像

Sporthorse-Data

 

パリ賞 (Grand Prix de Paris) はフランス・パリのロンシャン競馬場で開催される競馬。フランスとイギリスの一流の3歳馬の対決の舞台として1863年に創設されたという。スティーヴンが「王の旗に賭ける」というのは英仏の競争をふまえてだろう。

 

ティーヴンが馬の疾走を思ったのはなぜだろう。彼は前年失意のうちパリ留学からダブリンに戻って来てしがない教師をしている。海を渡りパリを疾走する馬の姿に自分のかなわなかった夢をかさねたのではないだろうか。

 

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194 (U629.790)ー ジブラルタル観光案内

わたし疲れたといってわたしたちはモミの木の洞くつで横になった

 

第194投。629ページ、790行目。

 

I said I was tired we lay over the firtree cove a wild place I suppose it must be the highest rock in existence the galleries and casemates and those frightful rocks and Saint Michaels cave with the icicles or whatever they call them hanging down and ladders all the mud plotching my boots Im sure thats the way down the monkeys go under the sea to Africa when they die the ships out far like chips that was the Malta boat passing yes

 

わたし疲れたといってわたしたちはモミの木の洞くつで横になった荒れ果てた地あれはたぶん世界一高い岩ね地下道や砲台やすごい岩があって聖マイケル洞くつにはつららとかなんとかいうのが垂れ下がっていたそれにハシゴ泥のシミがブーツについたきっとあの道をとおってサルたちは海の底をくぐってアフリカまでいって死ぬのよ遠くに船が見えるフライドポテトみたいマルタ島から来たのええ

 

 

第18章。最終章はブルーム氏の妻のモリ―の心中の声。一つの章がピリオドもコンマもない単語の長大な連なり8つでできている。ここはその5つ目のはじめのほう。

 

モリーは幼いころ住んだ英領ジブラルタルと当時の恋人のマルヴィーのことを思い出している。ここでモリーが思い出している場所は、現在のジブラルタルでも観光の名所となっている。

 

Giffordの注釈によると “the firtree cove”という場所は存在しないらしい。”Fig Tree Cave”「フィグツリー洞窟」の誤りではないかと。フィグツリー洞窟はジブラルタルの「ロック」(岬の南端の岩山)の東の崖にあり、アッパーロック自然保護区内のマーティン洞窟に近い。

 

地下トンネルや砲台があるのは、大包囲戦トンネル“Great Siege Tunnels”

 

大包囲戦トンネルは、「ロック」の北端にあるトンネル。18 世紀後半のジブラルタルの大包囲戦の際にイギリス軍によって掘られた。「ロック」の北面の一連のトンネルに砲台が配置された。

 

大包囲戦トンネルにおけるイギリス軍砲手の再現

File:Great Siege Tunnel gunners reconstruction.jpg - Wikimedia Commons

 

聖マイケル洞窟 ”St. Michael's Cave”は アッパーロック自然保護区内の海抜300メートル(98以上の高さにある洞窟群。「ロック」の地下を通る洞窟は24キロにもおよぶ。

 

聖マイケル洞窟の内部

File:Gibraltar St. Michael's Cave interior 3.jpg - Wikimedia Commons

 

「ロック」には、北アフリカが原産のバーバリー猿 “Barbary macaques” という種類の野生の猿が生息している。ジブラルタルバーバリー猿は、聖マイケル洞窟とモロッコの間の地下通路を通ってアフリカからロックに入ったという伝説がある。

 

ジブラルタル自然保護区のバーバリ猿
File:Monkey in Gibraltar 09.jpg - Wikimedia Commons

 

 

フィグツリー洞窟 大包囲戦トンネル ロックの頂上 聖マイケル洞窟 猿の生息地

 

ロンドンとファルマス、イベリア半島の港、ジブラルタル間の郵便および旅客サービスは、1837年「半島汽船会社」"the Peninsular Steam Navigation Company"(P&O 汽船会社 the Peninsular and Oriental Steam Navigation Company の前身)により開始された。その後、郵便船の航路はジブラルタルからマルタ、コルフ島、アレキサンドリアへと拡張された。

→ Times of Malta

 

モリーの見た船は下の写真のようなP&Oの汽船と考えられる。

 

1870 年頃のヴェネツィアの P&O社汽船

 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:P_%26_O_steamer_in_Venice_circa_1870,_in_album_owned_by_W.F._de_Salis,_a_director_of_the_company.jpg

 

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193 (U87.655) ー 墓地の少数派

コーニー・ケラハーが列から一歩下がると

 

第193投。87ページ、655行目。

 

 Corny Kelleher stepped aside from his rank and allowed the mourners to plod by.

 

 —Sad occasions, Mr Kernan began politely.

 

 Mr Bloom closed his eyes and sadly twice bowed his head.

 

 —The others are putting on their hats, Mr Kernan said. I suppose we can do so too. We are the last. This cemetery is a treacherous place.

 

 They covered their heads.

 

 Mr Bloom nodded gravely looking in the quick bloodshot eyes. Secret eyes, secretsearching. Mason, I think: not sure. Beside him again. We are the last. In the same boat. Hope he’ll say something else.

 

 

 コーニー・ケラハーが列から一歩下がると彼の前を会葬者がとぼとぼと歩を進めた。

 

 ―悲しむべき事態ですな。カーナン氏が深刻そうに口をひらいた。

 

 ブルーム氏は目を閉じたまま悲しげに二度頭を下げた。

 

 ―ほかの人は帽子をかぶりましたよ、とカーナン氏。かぶってよさそうだ。私たちだけですよ。この墓場は剣呑な場所ですな。

 

 二人は頭にかぶった。

 

 ブルーム氏は真面目にうなずき、落ち着かない充血した目を覗いた。謎の瞳、謎を探る。フリーメイソンか。定かでない。また隣になった。私たちだけですよ、だって。同じ輩。他の話をしてくれないかな。

 

第6章。パティ―・ディグナムの埋葬のため友人たちがグラスネヴィン墓地に来ている。この小説の主人公ブルーム氏とトム・カーナンの会話。コーニー・ケラハーは葬儀屋。

 

 

 

紅茶商

トム・カーナンは、ジョイスの作品である『ダブナーズ』中の「恩寵」の登場人物であり、そちらを読むと彼について分かることが多い。

 

彼は紅茶商で、「恩寵」のはじめのほうにこうある。

 

Mr Kernan was a commercial traveller of the old school which believed in the dignity of its calling.

 

“commercial traveller”については、ブログの第124回でふれた。地方各地へ出張旅行で渡り歩き、顧客を訪問して商品を売りこみ、注文を取る仕事なのだ。カフカの「変身」の主人公ザムザ氏も“commercial traveller”だった。

 

ユリシーズ』の第10章にカーナン氏を描写する断章がありこれによると彼の所属する紅茶商の名前はPulbrook Robertsonであることが分かる。

 

From the sundial towards James’s gate walked Mr Kernan, pleased with the order he had booked for Pulbrook Robertson, boldly along James’s street, past Shackleton’s offices.

(U196.719)

 

第17章によると、Pulbrook Robertson の本店はロンドンにある。

 

 Abroad?

 

 Ceylon (with spicegardens supplying tea to Thomas Kernan, agent for Pulbrook, Robertson and Co, 2 Mincing Lane, London, E. C., 5 Dame street, Dublin),・・・

(U597.1981)

 

 What imperfections in a perfect day did Bloom, walking, charged with collected articles of recently disvested male wearing apparel, silently, successively, enumerate?

 

 A provisional failure to obtain renewal of an advertisement: to obtain a certain quantity of tea from Thomas Kernan (agent for Pulbrook, Robertson and Co, 5 Dame Street, Dublin, and 2 Mincing Lane, London E. C.): ・・・

(U600.2075)

 

”agent” とあるので、彼は雇用されているのでなく、個人営業、今でいうフリーランスではないかとおもう。Pulbrook Robertson のために注文をとってきて成約すれば歩合で報酬を得るのだろう。その意味で広告取のブルーム氏も同じである。

 

Pulbrook Robertson について調べてみると、1935年に出版されたAll About Tea, Volume 2 (William H. Ukers著)P.171 に以下の記述あり、実在の紅茶商とわかった。

→ archieve org

 

ロンドン、EC3、クロス・レーン6番地にある紅茶商 Pulbrook & Co.の事業は、1859年にPalmer & Pulbrookとして設立。・・・1894年にはPulbrook, Robertson & Co.、1902年以降はPulbrook & Co.という名称で営業。現在の唯一の経営者はEdward.P.Pulbrook氏。

 

紅茶をテイスティングする男のペン画(1890年頃)

"A man tasting tea with inset picture of kettles boiling. Pen and ink drawing, c. 1890." is licensed under CC BY 4.0.

 

プロテスタント

「恩寵」によると、カーナンはもともとはプロテスタントだった。結婚に際してカトリックに改宗した。彼はカトリックの信仰に反感を持っていて、結婚後20年教会に足を踏み入れていない。

 

そのためカトリックによる葬儀の段取りがよく分からない。それでブルーム氏に話しかけている。ブルーム氏は周囲からはユダヤ人と見られているので、非カトリックということでは同類だから。

 

厳密にいうと、ブルーム氏は、父親はハンガリーからダブリンに移住したユダヤ人だが、生まれた時にはプロテスタントアイルランド聖公教会)の洗礼を受けている。そしてモリーとの結婚の際にカトリックに改宗している。この点ではカーナン氏と似たところがある。

 

一方で、ブルーム氏はなぜカーナン氏が接近してくるのか訝っている。彼はカーナン氏はフリーメイソンなのかと疑っている。一方で、ブルーム氏も(本人は知っているのかわからないが)知人たちからフリーメイソンではないかと疑われている。

 

カーナンが ”treacherous” (危険)という難しい単語を使う意味が分かった。かれは元々プロテスタントとして上流(といっても中流の上だろう)クラスに属していて(今は落ちぶれているが)高尚で気取った言葉遣いをするのだ。

 

ブログの第187回でふれた場面、葬儀に向かう馬車の中で、パワー氏が “trenchant”(痛烈) や “the retrospective arrangement” (回顧的整理) はカーナン氏の愛用の語句であると話題にしているのだが、それはカーナン氏の気取った言い回しをからかっているということだったのだ。

 

サウス ヨークシャー、バーンズリーのセメタリー ロードにあるバーンズリー墓地の 19 世紀の写真。

File:Old image of Barnsley Cemetery (7).JPG - Wikimedia Commons

 

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192 (U105.261) ー 編集長の戦闘違い

忘るまじかの戦いの記憶

 

第192投。105ページ、361行目。

 

MEMORABLE BATTLES RECALLED

 

 —North Cork militia! the editor cried, striding to the mantelpiece. We won every time! North Cork and Spanish officers!

 

 —Where was that, Myles? Ned Lambert asked with a reflective glance at his toecaps.

 

 —In Ohio! the editor shouted.

 

 —So it was, begad, Ned Lambert agreed.

 

 Passing out he whispered to J. J. O’Molloy:

 

 —Incipient jigs. Sad case.

 

 —Ohio! the editor crowed in high treble from his uplifted scarlet face. My Ohio!

 

 —A perfect cretic! the professor said. Long, short and long.

 

 

 

忘るまじかの戦いの記憶

 

 ―ノースコークの民兵隊。編集長は大きな声で言い、マントルピースのほうへ大股で歩いた。連戦連勝。ノースコークとスペインの士官がね。

 

 ―それはどこでだっけ、マイルズ、ネッド・ランバートが聞いた。靴のつま先を見つつ思案した。

 

 ―オハイオだ。編集長が言い放った。

 

 ―そうだった、違いない。ネッド・ランバートが応じた。

 

 部屋から出がけにJ.J.オモロイに小声で言った。

 

 ―ぶるぶるの初期症状だ。お気の毒に。

 

 ―オーハイオー。編集長は赤ら顔で天を仰ぎ最高音で発声した。わがオーハイオー。

 

 ―完璧な長短長格だ。先生が言った。長、短、長。

 

 

第7章。新聞社フリーマン・ジャーナル社が発行する「イブニング・テレグラフ」の編集室。部屋には、ブルーム氏、穀物商のネッド・ランバート、スティーヴンの父サイモン、古典語教師マッキュー先生、弁護士J.J.オモロイがいる。編集長のマイルズ・クローフォードが入ってきた所。ランバートとサイモンは部屋から出ていこうとしている。

 

第7章は断章ごとに新聞の見出しのようなものが付されている。

 

クローフォードがなぜ戦いのことを言い出しているのか分からない。彼のいう戦闘は何を指すのか。検索してみたが、クローフォードの言うような歴史的事実は存在しないようだ。

 

まず、アイルランドとスペイン軍が関係するアメリカ出来事を調べてみる。

 

1781年。ペンサコーラの戦いBattle of Pensacola)と言うのがあった。アメリカ独立戦争アメリカ植民地と英国の戦いだが、スペインやフランスはアメリカ側に立って参戦した。ペンサコーラの戦いは独立戦争中、現在のフロリダ州ペンサコーラで行われた戦いで、スペインがイギリス領西フロリダを制圧する形で終結した。スペイン軍にはアイリッシュ・ヒベルニア連隊が含まれてた。ヒベルニア連隊は、スペイン軍の外国人連隊の 1 つ。18世紀初頭より祖国から逃亡したアイルランド人によって結成された。いわゆるワイルドギースとして知られるアイルランド傭兵だ。ワイルドギースはブログの第80回でふれた。

 

しかしヒべルニア部隊はノースコークの民兵隊ではないし、オハイオでも戦っていない。

 

ペンサコーラの戦い:スペイン ルイジアナ連隊の擲弾兵士官の攻撃

File:Spanish assault at the Battle of Pensacola (1780).jpg - Wikimedia Commons

 

アイルランドオハイオが関係する出来事を調べてみる。

 

1755年。モノンガヒラ川の戦い(Battle of the Monongahela)というのがある。アメリカ大陸で、植民地を争いイギリスとフランスの間で行われたフレンチ・インディアン戦争、その始まりの戦い。イギリスのエドワード・ブラドック将軍(Edward Braddock  1695 – 1755)はアイルランドから陸軍2個連隊を率いて遠征した。英仏が争うオハイオ地方の支配を確立するためフランスのデュケーヌ砦へ攻撃したのがモノンガヒラ川の戦い。イギリス軍はフランス軍、カナダ軍およびアメリカ・インディアン同盟軍に敗れた。

 

これもノースコークの民兵隊は関係ないし、アイルランドの兵隊は負けている。

 

モノンガヒラの戦いで、ブラドック将軍に同行した白馬に乗る23歳のジョージ・ワシントン少佐。ユニウス・ブルータス・スターンズの絵をリトグラフ化。(1849 ~ 1856)

File:Major George Washington on a white horse at the Battle of the Monongahela in the French and Indian War.jpg - Wikimedia Commons

 

ノースコークの民兵が出てくる戦いを調べる。

 

1798年。オラートヒルの戦い(Battle of Oulart Hill)がある。18世紀後半のアイルランドは事実上イギリスの支配下にあった。1789年のフランス革命の影響で、イギリスからの独立をめざし、1798年アイルランドの各地で民衆による反乱が起った。反乱は最終的には英国政府軍に鎮圧されるのだが、反乱軍はウェックスフォード郡では勝利した。オラートヒルの戦いは反乱軍がウェックスフォード郡オラートヒルでイギリス政府側のノースコーク民兵隊に勝利を収めた戦い。

 

これはスペイン軍も、オハイオも関係ない。ノースコークの民兵隊はイギリス側でしかも負けている。

 

Edward Foran (1861-1938) の描くオーラ―とヒルの戦い

File:Battle of Oulart Hill.jpg - Wikimedia Commons

ネッド・ランバートは、ブログの第172回で見たように、コークの出身なので、クローフォードに聞き返している。そして彼の言うことが事実でないことが分かったのだろう。受け流している。

 

"jig"の意味がわからない。辞書には、「ジグ舞曲(テンポの速い活発なダンス)」「上下への急激な動き」とある。集英社版の訳では「アル中」とある。しかし調べてもアル中の意味は見つけられなかった。.確かにクローフォードは酒を飲んでるようで顔が赤い。何かしら、ふるえのくる病気のことを言っているのだと思う。

 

 

クレティック(cretic)は、詩の韻律学上の用語で、長音節、短音節、長音節の3つの音節を含む韻律的な脚のことをいう。マッキュー先生は古典文学の教師なので、「オー・ハイ・オー」をこうからかた。

 

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191 (U522.929) ー 目ざわりな鉄橋

ブルーム氏は、その老練な男が女の姿が発する反対方向からの誘引を追って

 

第191投。522ページ、929行目

 

このブログでは、乱数に基づいてランダムに『ユリシーズ』読んでいます。第92回と同じところに当たりましたので今回はパスです。

 

The irrepressible Bloom, who also had a shrewd suspicion that the old stager went out on a manœuvre after the counterattraction in the shape of a female who however had disappeared to all intents and purposes, could by straining just perceive him, when duly refreshed by his rum puncheon exploit, gaping up at the piers and girders of the Loop line rather out of his depth as of course it was all radically altered since his last visit and greatly improved.

 

ブルーム氏は、その老練な男が女の姿からの反対方向からの誘引を追って、屋外へと作戦を展開したのではないかと、鋭敏な疑いを禁じえなかったが、女の影はいかなる点からみても消失してしおり、目を凝らしてようやく知覚し得たのは、男がラム一樽を飲み尽くし、すっかり活気を得て鉄道ループ線の橋脚と主桁をあっけに取られて見上げる姿であったが、それは男の理解をすっかり超えるものだった、というのも最後にここに来た時からそれは根本的に姿を変え、大幅に改良されていたからである。

 

 

ループ線の鉄橋の下から望むカスタムハウス

 

File:Custom House and Custom House Quay, Dublin - geograph.org.uk - 1754881.jpg - Wikimedia Commons

 

190 (U487.4626) ー  街に夜鷹の声あり

トゥィーディー少佐:(荒っぽくどなる)ロルクズ・ドリフトの戦いだ。

 

第190投。487ページ、4626行目。

 

 MAJOR TWEEDY: (Growls gruffly.) Rorke’s Drift! Up, guards, and at them! Mahar shalal hashbaz.

 

 PRIVATE CARR: I’ll do him in

 

 PRIVATE COMPTON: (Waves the crowd back.) Fair play, here. Make a bleeding butcher’s shop of the bugger.

 

 (Massed bands blare Garryowen and God save the King.)

 

 CISSY CAFFREY: They’re going to fight. For me!

 

 CUNTY KATE: The brave and the fair.

 

 BIDDY THE CLAP: Methinks yon sable knight will joust it with the best.

 

 CUNTY KATE: (Blushing deeply.) Nay, madam. The gules doublet and merry saint George for me!

 

 STEPHEN:

     The harlot’s cry from street to street

     Shall weave Old Ireland’s windingsheet.

 

 トゥィーディー少佐:(荒っぽくどなる)ロルクズ・ドリフトの戦いだ。起て、近衛兵、構え。マヘル・シャラル・ハシュ・バズ。

 

 カー兵卒:たたんじまうぞ。

 

 コンプトン兵卒:(群衆に合図して下がらせる)フェアプレイといこう。肉屋の血祭だ。

 

 (集結した楽隊が『ギャリオーウエン』と『ゴッドセイヴザキング』を高らかに奏する。)

 

 シシー・キャフリー:ふたりが戦うのね、私のために。

 

 あばずれケイト:勇者と麗人。

 

 色町のビディー:ぬばたまの黒騎士無双の技をもていざ槍の一突き浴びせん。

 

 あばずれケイト:(顔を赤らめ)否や。紅の深染めの衣朗らかな聖ジョージこそわが思ふ人。

 

 スティーヴン:

     街から街へ客を呼んで歩くあの娼婦の叫びは

     老いたアイルランドの経帷子を織る

 

 

 

第15章の終盤。娼館を出たブルーム氏とスティーヴン。スティーヴンが英国兵士の女に声をかけたことから諍いとなる。

 

このブログの第71回の少しあとの場面。英国人の女はシシー・キャフリーとされていて、それは第13章で浜辺にいたの少もじゃもじゃ髪の少女なのだが、夜の町にいるわけがかいので幻想に属するものと思う。

 

英国対アイルランドを主題とした引用によるイメージの応酬となっている。

 

トゥィーディー少佐は、モリーの父親。アイルランド生まれだが英国軍人で王室ダブリン歩兵銃連隊に所属した。彼もこの場にいるはずがなく幻想上の登場になる。少し前にブルーム氏が、アイルランド人も英国軍に所属して戦っているのだと英国兵に反論したことからここに召喚されている。

 

ロルクズ・ドリフトの戦い(Battle of Rorke's Drift)1879年、英国と南部アフリカのズールー王国との間で戦われたズールー戦争中の戦闘の一つ。トゥィーディーが参加して軍功をあげた。ブログの第87回の場面でブルームの台詞に言及されている。

 

ウェリントン公爵

“Up, Guards, and at them again.” は、英国のナポレオンに対するワーテルローの戦いで、英国のウェリントン公爵(初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769 - 1852)が言った言葉。しばしば「Up Guards and at 'em.」と誤って引用されている。ウェリントン自身は、後年自分が何を言ったのか正確には覚えていないと述べている。

 

テンプル騎士団

この箇所の直前のト書で、彼はテンプル騎士団の巡礼戦士の合言葉を発するとある。

・・・He gives the pilgrim warrior’s sign of the knights templars.)

 

テンプル騎士団は聖地への巡礼者を守るために設立された中世の騎士修道会。秘密結社フリーメイソンのルーツはテンプル騎士団であるとの伝説がある。

 

「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」“Mahar shalal hashbaz” テンプル騎士団の秘密の合言葉と考えられる。

 

この言葉は、旧約聖書イザヤ書第8章に登場する預言者の名前。「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」の意味。

 

8:1ヱホバ我にいひたまひけるは一の大なる牌をとり そのうへに平常の文字にてマヘル シャラル ハシ バズと録せ

8:3 われ預言者の妻にちかづきしとき彼はらみて子をうみければ ヱホバ我にいひたまはく その名をマヘル シャラル ハシ バズと稱へよ

イザヤ書

 

テンプル騎士団の衣装を着たヘンリー・パターソン氏の肖像写真(1888~1889)

File:Henry Peterson in York Rite Knights Templar Masonic uniform, probably between 1888 and 1889 (PORTRAITS 2422).jpg - Wikimedia Commons

 

フリーメイソン

なぜ彼が、テンプル騎士団の合言葉を発するのか。ここの場面からかなり遡るが英国王エドワード7世(Edward VII、 Albert Edward、1841 - 1910)の幻が現れている。王は 「マハク マカ― アバク」“Mahak makar a bak.” と謎の言葉を発している。これに呼応してトゥイーディーが合言葉を返しているのと思う。

 

EDWARD THE SEVENTH: (Slowly, solemnly but indistinctly.) Peace, perfect peace. For identification, bucket in my hand. Cheerio, boys. (He turns to his subjects.) We have come here to witness a clean straight fight and we heartily wish both men the best of good luck. Mahak makar a bak.

 

エドワード7世の合言葉の意味は検索しても不明なのだが、王はフリーメイソンに加入していたのでその合言葉を模していると考えられる。

 

英国フリーメイソンのグランド・マスターの衣装を着たウェールズ皇太子時代のエドワード7世

File:Albert Edward, Prince of Wales, as a Free Mason.jpg - Wikimedia Commons

 

 

Garryowen_「ギャリオーウェン」は、アイルランド、リメリックの地名で、もともとはダンスのためのアイルランドの曲。後に英連邦軍アメリカ軍の行進曲としてよく知られるようになる。ここではアイルランドを象徴する曲として鳴らされていると思われる。

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God Save the King「国王陛下万歳」はもちろん英国の事実上の国家。

 

 

マシュー・グレゴリー・ルイス

 

Cunty KateとBiddy the Clap は街の娼婦。

 

"The brave and the fair" 「勇者と美女」は、イギリスの小説家、劇作家、マシュー・グレゴリー・ルイス(Matthew Gregory Lewis, 1775年 - 1818年)の書いたゴシック小説の代表作「マンク」The Monkに挿入された詩「勇者アロンゾと麗しのイモジン」Alonzo the Brave, and Fair Imogine からと思われる。

 

ウィリアム・ブレイク

ティーヴンの台詞は、英国の詩人、画家、ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757 - 1827)の『無心のまえぶれ』Auguries of Innocenceの一節より。ただし、”England” を "Ireland" に変えている。。

 

The Whore & Gambler by the State

Licencd build that Nations Fate

The Harlots cry from Street to Street

Shall weave Old Englands winding Sheet

The Winners Shout the Losers Curse

Dance before dead Englands Hearse

 

娼婦やばくちうちが 国家から

免許されるようでは その国民の前途は知れている

街から街へ客を呼んで歩くあの娼婦の叫びは

老いたイギリスの経かたびらを織る

ばくちに勝ったもののわめき 負けたものの呪いが

死んだイギリスの棺架を前にして踊る

『ブレイク詩集』 寿岳文章 訳 岩波文庫(2013年)

 

ティーヴンは第2章、デイジー校長との会話中にこの一節を思い浮かべていた。

 

 

グラスゴー現代美術館(GoMA)前のウェリントン公爵騎馬像

File:Wellington at the GoMA - geograph.org.uk - 2389489.jpg - Wikimedia Commons

 

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