ブルーム氏とスティーヴンの食事観
前回の続きで、今回は、ブルーム氏の妻のモリーの食事についてだが、その前にこの小説の主人公、ブルーム氏とスティーヴンの食事観について、ここでまとめておきたい。
第16章、ブルーム氏は酔っぱらったスティーヴンを馭者溜まりに連れてきて、コーヒーを飲まそうとする。その場面でスティーヴンこう言う。
ーとはいえ実のある食物だよ、と、彼の善き守護神は主張した。ぼくは実のある食物にうるさいほうでね。その唯一の理由は決して飽食のためではなく、精神的であれ肉体的であれひとかどの仕事をやりとげるため《必要不可欠な》規則的な食事のためなんだ。君はもっと実のあるものを食べなさい。別人のようになるから。
—Still it’s solid food, his good genius urged, I’m a stickler for solid food, his one and only reason being not gormandising in the least but regular meals as the sine qua non for any kind of proper work, mental or manual. You ought to eat more solid food. You would feel a different man.
(U519.811―)
ブルーム氏は、さらにこう言う。
《祖国あるところ》母校の古典の時間に習ったうろ覚えで言うならば《良き暮らしあり》。良き暮らしのあるところに意義がある。働くことが前提だけど。
Ubi patria, as we learned a smattering of in our classical days in Alma Mater, vita bene. Where you can live well, the sense is, if you work.
(U526,1139)
スティーヴンは答える。
ーぼくは除外してください 彼はなんとか答えた 働くという意味ではね
ーCount me out, he managed to remark, meaning work.
(U526.1148)
ブルーム氏の考えは、個人は国家に属しているので、世の中のためになる労働をすべきであり、労働するためには、きちんとした食事をする必要がある、というもの。一方でスティーヴンは、労働を否定、そして食べることも拒否する。
以上の会話をふまえ、第17章で問いと答えのかたちでまとめが示される。
彼らの見解はどの点において食い違ったか。
スティーヴンは食物の摂取と市民としての自立が重要だと説くブルームの見解に公然と異議を唱え、ブルームは文学において人間の精神が永遠に肯定されるというスティーヴンの見解に暗黙裡に異議を示した。
Were their views on some points divergent?
Stephen dissented openly from Bloom’s views on the importance of dietary and civic selfhelp while Bloom dissented tacitly from Stephen’s views on the eternal affirmation of the spirit of man in literature.
(U544.27ー)
ブルーム氏はしっかり食べて、しっかり働き、自立した市民生活をすべきという平凡な一般論をもっており、スティーヴンは食べることや働くことよりも芸術が至上であるという思想をもっている。本日の彼らの食事にはその考えが反映しているのだ。
モリーの朝食
最後に、ブルーム氏の妻であるモリーの食事を詳しく見てみる。モリーの朝食はブルーム氏が準備していて、彼女はベッドで食事する。まとめると。
- ティーポットに沸騰したお湯をいれてゆすいでから紅茶の葉をスプーンで4杯入れ湯を注ぐ。茶が出てからカップに注ぐ。
- お盆にティーポットとティーカップ、バターを塗ったパン4枚、砂糖、クリームを載せて供する。
- ブルーム氏によると、モリーは薄切りパンにバターをぬったのが朝食の好み。また昨日のパンが好き。
紅茶
紅茶はアン・リンチのもの。クリームはアイルランド模範酪農場のクリーム。
これについてはブログの第61回でふれた。
パン
前回ふれた通り、パンはトーストにしていると考えられる。
1904年当時のパンとはどんなものなのか。画像を見つけるのはなかなか難しい。我々におなじみのような食パンは当時まだなかったようだ。下のイラストでいうと上から4つ目(New England)がトーストにして食べるようなパンではないかと思う。
パン4枚は多いように思うが、前回に引用した著書で、林望氏の言うのようにパン1枚を2つに切る習慣があるとすれば2枚分なので多くない。

The Grocer's Encyclopedia, (1911)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rawpixel_original_lithographs_by_rawpixel-com_00098.jpg
ブルーム家にはボーランドベーカリー(Boland's)がパンを配達してくれている。(U47.83)ボランドベーカリーは、19 世紀後半のダブリン最大のパン屋だったという。

アイルランド、コーク市のパン配達馬車(1910-1915年頃)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twomey%27s_Machine_Bakery_(straightened_and_cropped).jpg
前述の通り、「モリーは薄切りパンにバターをぬったのが朝食の好み。また昨日のパンが好き。」とされている。写真家の西川治氏の『世界ぐるっとひとり旅 ひとりメシ紀行』(だいわ文庫 2016年)を読んでいると次のような記述があった。
ちょっとイギリス式のトーストについて書いておこう。ご存じのようにイギリスのトーストはいたって薄い。食パンを12~14枚くらいに切ったものだ。6~7ミリくらいだろうか。それをかなりこんがりと焼く。ちょっとぼくらの感覚からすると焼きすぎではないかとおもえるほど焼く。・・・そうそう、パンは少なくとも一晩おいたものを使う。その日の朝焼いたばかりのフレッシュなパンでは、どうもまだ湿り気がありトーストにするにはうまくないそうだ。
一晩おいた薄切りパンを好むのは英国人一般の好みであることが解る。
(この青字の段、2025年5月4日追記)
モリーの昼食・夕食
ブルーム氏の妻のモリーは、今日の4時過ぎ、愛人のボイランと情事のあとボイランの届けた食事を取っている (U631.131)。内容はすでにブログの第61回でふれた。
- ジャージー梨
- 桃
- ウィリアム・ギルビー社の強壮用白ポートワイン
- プラムトゥリーの瓶詰肉
- パン
ポートワイン
前々回に引用の書籍、小野 二郎氏の『紅茶を受皿で: イギリス民衆芸術覚書』(晶文社 1981年)によると、英国では古来ワインをフランスから輸入して飲まれてきたが、17世紀末フランスワインの輸入中止にともないポルトガルからワインが大量に入って来るようになった。上等でないポルトガルのポートが安いフランスワインの代用となり、庶民はポートを飲むようになったという。
またポートワインは梨や桃とよく合うとされる。
プラムツリーの瓶詰肉
プラムツリーの瓶詰肉については同じく第61回でふれた。ベッドにはパン屑が落ちてる。(U601.2124)。これはパンに塗ってたべるものなのだ。
ポークチョップ
第18章で。モリーはドルガックの店で買ったポークチョップ(骨付きロースの切り身)を食べてと紅茶を飲んでいる。何時ごろに食べたのかよく分からない。文面から情事の後と読めるが、ボイランが来たのは4時と遅いので、お昼にたべたのではないかと一応推測する。
ひょっとしたらポークチョップが暑さでよくなかったのかもあの後でお茶をのみながら食べたやつ特に匂いはしなかったけどあの豚肉屋の変な顔の男はきっとひどい悪ものにちがいない
who knows if that pork chop I took with my cup of tea after was quite good with the heat I couldnt smell anything off it Im sure that queerlooking man in the porkbutchers is a great rogue・・・
(U628.909)

ポークチョップのロースト
モリーの明日の食事
第18章はモリーの長大なモノローグになっている。飲食物への言及が頻出するが、モリーの明日の食事に関するものにしぼって拾ってみよう。モリーとブルーム氏の対立軸が見えてきた。
●ディナーに黒ビールを飲むのはやめよう、と考えている。今日は飲んだのだろうか。よくわからない。ブルーム氏はおそらく黒ビールは飲まないだろう。
ディナーの時のスタウトをやめなきゃ
Ill have to knock off the stout at dinner
(U618.450)
●明日は金曜(肉食をしない断食日)なので「ツノガレイ」(plaice)かタラ(cod)を食べようかと思っている。
すてきな新鮮なツノガレイわたしの買った魚でもたべようか明日いやもう今日か金曜日だからうんブランマンジェといっしょにクロスグリのジャムと昔みたいにプラムとアップルをまぜた2ポンド入りの瓶じゃなくてロンドンアンドニューカッスルウィリアムウッズ2倍はする骨のせいでウナギはいやタラはいいタラを買おういつも3人分かってしまううっかりしてあいかわらずの肉屋の肉にはうんざりするバックリーの店の腰の骨肉牛の脚肉あばらの切り身羊の首肉仔牛のモツ肉名前でもうたくさん
lovely fresh plaice I bought I think Ill get a bit of fish tomorrow or today is it Friday yes I will with some blancmange with black currant jam like long ago not those 2 lb pots of mixed plum and apple from the London and Newcastle Williams and Woods goes twice as far only for the bones I hate those eels cod yes Ill get a nice piece of cod Im always getting enough for 3 forgetting anyway Im sick of that everlasting butchers meat from Buckleys loin chops and leg beef and rib steak and scrag of mutton and calfs pluck the very name is enough
(U629.938)

ツノガレイの切り身の調理例
File:Fillet of plaice, 2018-(01).jpg - Wikimedia Commons
ブラン・マンジェ(仏:blanc-manger)は冷菓の一種。砕いたアーモンドからアーモンドミルクを抽出し牛乳に香りを付けてゼラチンで固めて作る。
モリーは魚が好きのようだ。ジブラルタルの生まれなのでおかしくない(第96回参照)。一方、第88回でみたように、ブルーム氏は魚が嫌いのように思える。
モリーはウナギは骨があるので嫌いのようだ。一方、第55回でみたようにブルーム氏は邸宅にウナギの罠を保有することを夢想しているのでウナギは好きなのではないかと思う。
モリーは肉はうんざりと言っているが、これまで見た通りブルーム氏は肉好き、特に臓物料理を好む。
●明日は、早起きして市場で野菜を買うことを考えている。
あす朝早くおきてとにかく市場へいって野菜を全部みてキャベツやトマトやにんじんや全部の種類のすばらしい果物入荷したすてきで新鮮な
Ill get up early in the morning Im sick of Cohens old bed in any case I might go over to the markets to see all the vegetables and cabbages and tomatoes and carrots and all kinds of splendid fruits all coming in lovely and fresh
(U641.1499)
ブルーム氏は今日、野菜も果物もほぼ食べていないので、この点も志向が逆と見える。
次回はもう一回だけまとめをおこない、今回の踊場を終わりにしたい。