Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

148(U190.464)

そばを通ると、びくついた馬は緩んだ馬具を引いて進みだした。

 

第148投。190ページ、464行目。

 

 The horses he passed started nervously under their slack harness. He slapped a piebald haunch quivering near him and cried:

 

 —Woa, sonny!

 

 He turned to J. J. O’Molloy and asked:

 

 —Well, Jack. What is it? What’s the trouble? Wait awhile. Hold hard.

 

 With gaping mouth and head far back he stood still and, after an instant, sneezed loudly.

 

 —Chow! he said. Blast you!

 

 —The dust from those sacks, J. J. O’Molloy said politely.

 

 —No, Ned Lambert gasped, I caught a... cold night before... blast your soul... night before last... and there was a hell of a lot of draught...

 

 He held his handkerchief ready for the coming...

 

 —I was... Glasnevin this morning... poor little... what do you call him... Chow!... Mother of Moses!

 

          *    *    *

 

 

 そばを通ると、びくついた馬は緩んだ馬具を引いて進みだした。斑馬のゆれる尻が近くにきたところでぴしゃりと叩いて大きな声でいった。

 

 ―どうどう、坊や。

 

 J.J.オモロイの方を向いて聞いた。

 

 ―ところでジャック。なに。どうかしたの。ちょっとまって。止まって。

 

 大口あけ天を仰ぎ一瞬固まったあとでっかいくしゃみをした。

 

 ―へっくしょん、ちくしょうめ。

 

 ―袋の粉のせいかな。J.J.オモロイが穏やかに言った。

 

 ―いや、と、ネッド・ランバートがあえぐ、風邪を … 引いたんだ … おととい … くそっ … 晩に … いまいましいすきま風がやたらと …。

 

 ハンカチをつかむと続いて … 。

 

 ―おれは…今朝グラスネヴィンに…気の毒な幼い…なんてなまえだっけ…へっくしょん … もぅ、うぜえ。

 

                  *    *    *

 

第10章は、19個の断章で構成されていて、ダブリンのさまざまな場面が描かれる。ここはその第8番目の断章のおわり。ブログの第50回のすぐ後の場面。

 

穀物商のネッド・ランバートは、聖マリア修道院の集会場の遺構を倉庫に使っていて、訪ねてきた弁護士のJ.J.オモロイと、倉庫からマリア修道院通(Mary’s abbey)に出てきたところ。

 

      

 

馬は商品の運送用の馬車をひいていると考えられる。

 

“woa” は、馬を止める時のかけごえで普通は、”whoa",  "woah" とつづるよう。

 

“sonny” は、男の子の対する呼びかけのことば。“son” に接尾語 ”y” がついたものとか。

 

ランバートがジャック(オモロイ)に聞いているのは、何しにここに来たのか、ということだと思う。それは読者にとっても疑問なのだが、オモロイは零落した弁護士なので金を貸してもらう相談に来たのではないかと思う。

 

くしゃみの擬音語は、英語ではふつう “achoo”(アチュー)。ランバートは ”chow” とくしゃみをしている。

 

この小説は、ブルーム氏の屁やら、パブの主のあくびやら、マリガンの唾やら、モリーの小便やらそういったこともくまなく律儀に描写している。

 

英米ではくしゃみをした人に 対しそばにいる人が “(God) bless you." (お大事に)という習慣がある。世界的にくしゃみをした人にはその人の健康を気遣う言葉をかけるよう。世界の、くしゃみの擬態語と周囲の反応についいて → Wikipedia

 

しかし日本や韓国などの東南アジアでは、周りの人が声をかける習慣はない。

 

一方で、日本では、くしゃみをした後、本人が「チクショウ」とか罵りを発することがある。

 

中世の日本では鼻から魂が抜けたものがくしゃみとされていて、くしゃみをするたびに寿命が縮むと信じられていた。そこで「くさめ」と呪文を唱えれば早死にしないとされた。その後「くさめ」が「くしゃみ」を表す言葉になる一方、「くさめ」は「糞食め(くそはめ)」に転じて、くしゃみの後、罵倒語を発する習慣につながっているらしい。

 

ランバートの発する “blast you!”, “blast your soul”, “Mother of Moses!” はみんな日本語でいうと「チクショウ」という罵倒語に相当するので、ランバートのふるまいは日本と同じ型になっている。アイルランドではそういう習慣なのか、その情報は調べてもつかめなかった。

 

西欧では、驚きや罵りに神聖な言葉を使うとがよくある。"Mother of Moses!” (モーゼの母)は辞書をしらべても載っていないが、"Holy Moses"  や "Mother of God" というのはあるので、同じたぐいの言葉と思う。 → wiktionary

 

グラスネヴィンは墓地で、ランバートは午前、この小説の主人公ブルーム氏とともにディグナムの葬儀に参列している。

 

三つの星(*    *    *)は次の断章との区切りである。

 

  

           

イタリア人宣教師ジュゼッペ・カスティリオーネ (Giuseppe Castiglione、1688 - 1766、中国名、郎世寧) の描く『十駿馬』中の斑馬。

File:郎世宁阚虎骝轴.png - Wikimedia Commons

 

このブログの方法については☞こちら

147(U230.885)

貸馬車324番、馭者はバートン・ジェイムズ

 

第147投。230ページ、885行目。

 

 A hackney car, number three hundred and twentyfour, driver Barton James of number one Harmony avenue, Donnybrook, on which sat a fare, a young gentleman, stylishly dressed in an indigoblue serge suit made by George Robert Mesias, tailor and cutter, of number five Eden quay, and wearing a straw hat very dressy, bought of John Plasto of number one Great Brunswick street, hatter. Eh? This is the jingle that joggled and jingled. By Dlugacz’ porkshop bright tubes of Agendath trotted a gallantbuttocked mare.

 

 貸馬車324番、馭者はバートン・ジェイムズ、ドニーブルック・ハーモニーアヴェニュー1番地在住、に乗客が、若い紳士が乗っている。仕立屋ジョージ・ロバート・メサイアス、イーデン河岸5番地で誂えた藍色のサージのスーツを粋に着こなし、帽子屋ジョン・プラストウ、グレート・ブランズウィック通り1番地で購入した洒落た麦藁帽をかぶっている。ん。これはゆらゆらチリンチリンがたくり馬車。ドル―ガックの肉屋、アジェンダスの色鮮やかな肉管の前、早足で行く、堂々とした尻の牝馬

 

第11章。午後の4時ごろ。オーモンドホテルのレストランでブルーム氏は夕食を取っている。一方でブルーム氏の妻モリーの愛人ボイランは、貸馬車でブルーム家へと向かっている。ここはボイランの客観描写なのか、ブルーム氏の空想なの定かでない。

 

ブログの第91回ですでに読んだ第15章の幻想場面の元になっている箇所。

 

ブログの第2回で見た通り、仕立て屋のメサイヤスはブルーム氏も利用していて、ボイランとブルーム氏はこの店で知り合っている。

 

またブルーム氏の山高帽もプラストーの帽子屋で買ったものである。(U46.69)

ブルーム氏は、妻の愛人と仕立て屋と帽子屋も共有しているという皮肉。

 

麦藁帽は、英国では "Boater" と呼ばれ、日本ではカンカン帽と呼ばれた帽子のこと。世界的に19世紀末から20世紀の初めに流行した。

 

    

映画『セカンドコーラス』のフレッド・アステア

File:Astaire in Second Chorus 2.jpg - Wikimedia Commons

 

サージ “serge” とは梳毛糸(そもうし)という羊毛の長い毛から作った滑らかな糸を使用した綾織で織った毛織物。ツイードのように毛羽立っておらず、スムーズな表面と滑らかな手触りが特徴。

 

日本においては、昔は “serge” を「セルジ」と読んだうえ、これを「セル地」と解してその「地」を略し「セル」とよばれた。

 

たまたま読んでいた田山花袋(1872 - 1930)の『蒲団』(1908年出版)に、こんな一節があった。主人公である作家、竹中時雄の描写。

 

縞セルの背広に、麦稈帽、藤蔓の杖をついて、稍々前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪へ難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充ち渡つて、深い碧の色が際立つて人の感情を動かした。

 

ボイランと『蒲団』の主人公は同じいで立ちなのだ。私小説『蒲団』のもとになったのは1904年ごろから3年くらいの出来事なので『ユリシーズ』の現在(1904年)と同時代の小説となる。竹中時雄は34、5歳の男で、ボイランもちょうど同じくらいの年かもしれない。

 

ブログの第52回でふれたように、Jingleには①チンチンリンリンという音、②馬車そのもの、③ブルーム家のベットの金具の鳴る音、との含意がある。

 

アジェンダス“Agendath”はシオニストの設立したパレスチナの会社のことで、第111回で詳しくみた。肉屋はこの会社への投資勧誘広告の切れ端を肉の包み紙に利用している。

 

そして “bright tubes” は何か。

 

見通しの明るい (bright) 投資広告の切れ端が巻いてあるのか、と思った。うまいな。いや、しかし切れ端は、巻いてなくて、平積みのようなので違う。(U48.154)

 

やはり、肉屋の店先のソーセージということか。

 

第11章は、音楽的な言語で書かれているので、明るい音色 (bright) 楽器の管 (tube) に掛けて、わざわざこういう言い方にしているのだ。さらに tube に性的な意味も持たしているにちがいない。

    

    

ダブリンの昔の肉屋


"panellst1946-butcher" by s_bonner2 is licensed under CC BY 2.0.

 

このブログの方法については☞こちら

146(U304.898)

あそこで彼女はみんなと花火を見ようとしている。

 

146投。304ページ、.898行目。

 

 There she is with them down there for the fireworks. My fireworks. Up like a rocket, down like a stick. And the children, twins they must be, waiting for something to happen. Want to be grownups. Dressing in mother’s clothes. Time enough, understand all the ways of the world. And the dark one with the mop head and the nigger mouth. I knew she could whistle. Mouth made for that. Like Molly.

 あそこで彼女はみんなと花火を見ようとしている。おれの花火。昇るは火箭の如く落ちるは棒の如し。それと子供たち、双子に違いない、何事かを待っている。大人になりたい。お母さんの服を着たり。まだまだ時間がかかる、世の中の事情に通じるには。それと黒髪の子、モップ頭で黒人のような唇をした。口笛を吹いてたな。それ向きの唇。モリーもそう。

 

第13章。午後8時。サンディマウントの海岸。三人の少女ガーティーマクダウェル、イーディー・ボードマン、シシー・キャフリーが子供のおもりをしている。チャリティーマーケットで花火が打ち上げられる。その少女たちを眺めるブルーム氏の独白。

 

“Going up like a rocket and coming down like a stick.”「上がるときはロケットのごとく飛びだし、下がるときは棒きれのように落ちる」というのは英語の慣用句で「はじめは威勢がいいのに、終わるころにはだらしない」という意味。日本語でいうと「竜頭蛇尾」に相当。

 

下の写真のような花火をsky rocketとかbottle rocketと呼び、火薬の下に、軌道を安定させるため棒がついている。それで落ちる時は棒のようというのではないか。

 

       

"Bottle Rockets" by User:Surachit is licensed under CC SA 1.0.

ブルーム氏は「おれの花火」といっているので、自分の勃起と射精の後のことを考えているに違いない。あるいはブルーム氏は、自分のこれまでの人生のことを考えているのかもしれない。昔は幸せだったが、息子の死を境に、今の人生は下り坂。ああ、だから赤ちゃんの将来のことの思考につながるのか。

 

さらにこういうことを思いついた。第13章はなぜか前半と後半に分かれていて前半は婦人雑誌に載る小説の文体で書かれていて、花火を境に、後半は今回の所のようなブルーム氏の独白となる。上昇と落下というのはこの章の構成につながるのかもしれない。

 

さらに言えば、『ユリシーズ』全体の構成のことに関係しているかもしれない、第13章はこの小説の全体の分量からいってちょうど真ん中あたりになる。(厳密にページ数でいうと真ん中は次の第14章の初めの方になるが。)この章の花火が、この小説の前半と後半の境目になっているではないだろうか。

 

ブルームが今いる海岸は今日一日の行程で家からいちばん遠い地点といえる。また第13章までは日が出ているが、この章の後で日が暮れ、その後文体はますます難解で読みにくいものになっていく。

 

この場面のしばらく後でブルーム氏は、砂浜で棒を拾う。その棒で砂浜に文字を書いたあと、棒を放り投げると偶然にも地面に突っ立っつ。

 

・・・What’s this? Bit of stick.

・・・

 Mr Bloom with his stick gently vexed the thick sand at his foot. Write a message for her. Might remain. What?

・・・

 He flung his wooden pen away. The stick fell in silted sand, stuck. Now if you were trying to do that for a week on end you couldn’t. Chance.

(U312.1252―1272)

 

棒の落下というのはこの場面を予告しているようだ。

 

モップのような髪の少女とは、ブログの第135回でふれたように、真っ黒な顔でもじゃもじゃ頭のキャラクターゴリウオッグにたとえられた、シシー・キャフリー。

 

シシーはさっき、口笛を吹いており、ブルーム氏はそれを目撃している。

 

  Cissy Caffrey whistled, imitating the boys in the football field to show what a great person she was: and then she cried:

 

 —Gerty! Gerty! We’re going. Come on. We can see from farther up.

 

(U301.754)

 

 

晩の8時とはいえ、夏のダブリンの空はまだ明るいので、花火は明るい空に打ち上げられている。

 

 


"18/52 Daytime Fireworks" by krow10 is licensed under CC BY 2.0.

 

145(U355.170)

ブルーム:あれはオーロラか鋳物工場か。

 

第145投。355ページ、170行目。

 

 (He stands at Cormack’s corner, watching.)

 

 BLOOM: Aurora borealis or a steel foundry? Ah, the brigade, of course. South side anyhow. Big blaze. Might be his house. Beggar’s bush. We’re safe. (He hums cheerfully.) London’s burning, London’s burning! On fire, on fire! (He catches sight of the navvy lurching through the crowd at the farther side of Talbot street.) I’ll miss him. Run. Quick. Better cross here.

 (コーマックの酒場の角でじっと見ている。)

 

 ブルーム:あれはオーロラか鋳物工場か。ああ、そうか、消防隊だ。とにかく南の方。燃え盛る炎。盛んなあいつの家だったりして。ベガーズ・ブッシュ。おれたちは無事。(陽気に口ずさむ)ロンドンが燃えている、ロンドンが燃えている、火事だ、火事だ。(群衆をかき分けてタルボット通りの向こう側の方へよろよろ進む道路工事人を見つけて)見失ってしまう、走れ。急げ。ここを渡ろう。

 

第15章の始めの方。ブルーム氏はスティーヴンとリンチの後を追って、アミアンズ通り駅から、娼館街へやってきたところ。現在彼はコーマックの酒場のある角の所にいて、タルボット通りを渡ろうとしている。

 

★ ブルーム氏のいる、コーマックの酒場の角   

             

 

“Aurora”は、ローマ神話の「日の出の女神」“Borealis”は北風の神の名前に由来し、北極のオーロラのことを、“Aurora Borealis”という。オーロラがダブリンで見えるわけもなく、南の方で火事があったようだ。

 

(2023年11月9日追記)

「オーロラがダブリンで見えるわけもなく」と書いたが、2023年11月6日の晩、アイルランドを含む欧州各地でオーロラが観測されたという。ブルーム氏はここでふざけたことをいっているわけではないのかもしれない。 

www.independent.ie

 

“blaze” は「炎」だが、ブルーム氏は “Bazes”(ブレイゼス)というあだ名の男、つまりブルーム氏の妻の愛人のボイランを思い浮かべて、彼の家が燃えているのかもと空想している。ベガーズ・ブッシュはダブリン市内南東の地名だが、ボイランの家はそのあたりにあるのだろうか。

 

ブログの第37回のところでふれたように、London's burningScotland's Burningという童謡・輪唱のバリエーション。→ ♪

 

London's burning, London's burning.

Fetch the engines, fetch the engines.

Fire, fire! Fire, fire!

Pour on water, pour on water.

 

ブルーム氏はスティーヴンを追いかけてきたので、彼を見失うまいとしている。

 

    

フリチョフ・ナンセン「北の霧の中で」(1911)に掲載のオーロラの木版画

File:Nansen - Nord i Tåkeheimen, woodcut 1, coloured.jpg - Wikimedia Commons

 

このブログの方法については☞こちら

144(U540.1778)

鎖の手前で馬はゆっくり反対方向の向きへと転回したが

第144投。540ページ、1778行目。

 

 By the chains the horse slowly swerved to turn, which perceiving, Bloom, who was keeping a sharp lookout as usual, plucked the other’s sleeve gently, jocosely remarking:

 

 —Our lives are in peril tonight. Beware of the steamroller.

 

 They thereupon stopped. Bloom looked at the head of a horse not worth anything like sixtyfive guineas, suddenly in evidence in the dark quite near so that it seemed new, a different grouping of bones and even flesh because palpably it was a fourwalker, a hipshaker, a blackbuttocker, a taildangler, a headhanger putting his hind foot foremost the while the lord of his creation sat on the perch, busy with his thoughts. But such a good poor brute he was sorry he hadn’t a lump of sugar but, as he wisely reflected, you could scarcely be prepared for every emergency that might crop up.

 

 鎖の手前で馬はゆっくり反対方向の向きへと転回したが、ブルームは平生通り警戒おさおさ怠りなかったのでそれを察知しそっと相手の袖をつかんでおどけて言った。

 

 ―我らが生は危機に瀕しておりますぞ。ごり押し車に警戒あれ。

 

 其処にて二人は立ち止まった。ブルームは65ギニーの値打ちはさらさらない馬の頭部を見やったが、突然、暗闇の中、明瞭に、それは極めて近かったため、骨と、いや肉までもが全く見たこともないように組み合わされたもののように見えた。なんとなれば明らさまにそれは四足歩者、遥臀部者、黒屁股者、懸垂尾者、吊下頭者であり奥の手ならぬ足を出していたからで、一方かの創造主はいと高きみくらに座し物思いにふけっていた。ブルームはこの善良で哀れな獣のために角砂糖の一つも持ちあわせていないのを悔いつつも、出来するやもしれぬあらゆる非常事態に備えることなどできはしないと賢明にも思考した。

 

 

第16章。夜中の2時近く。ブルーム氏はスティーヴンを自宅に連れて行こうと、馭者溜まりからベレスフォード・プレイスへ出たところ。ブログの第51回のすぐ後の箇所。車道と歩道を隔てるためポールに張られたチェーンの向こうに清掃車を引く馬がいる。

 

第16章は、例によって、述べられていることが不正確、不明瞭であるうえ、分かりにくい悪文で書かれている。

 

地面をローラーで踏み固める建設機械を ロードローラー (road roller) といって、もともと馬が牽引していた。蒸気機関で動くロードローラーをスチームローラー (steam roller) というようになったが、動力にかかわらずロードローラーをスチームローラーと呼ぶことがあるという。スチームローラーには、「反対を押し切る強引な手段,強圧」という意味もあるよう。

 

ブルーム氏とスティーヴンが向かい合っているのは清掃車で、ロードローラーでもスチームローラーでもない。

 

65ギニーというのはブログの第51回のところでふれたように、スティーヴンが65ギニーでリュートを買いたいといったからである。

 

「後ろ足を前に出す」“putting his hind foot foremost”というのは「いちばん良い足を前に出す」 “put our best foot forward” という奇妙な英語の慣用句をふまえている。「出だしからベストを尽くす」とか「できる限り最高の印象を与える」という意味で使われる。

 

"Skeleton of Eclipse (a horse)." is licensed under CC BY 4.0.

 

このブログの方法については☞こちら

 

143(U132.373)

スッ、チッ、チッ、チッ。三日もベッドで呻いて

第143投。132ページ、373行目。

 

 Sss. Dth, dth, dth! Three days imagine groaning on a bed with a vinegared handkerchief round her forehead, her belly swollen out. Phew! Dreadful simply! Child’s head too big: forceps.

 

 スッ、チッ、チッ、チッ。三日もベッドで呻いて、酢を染みこましたハンカチを額にあてて、お腹を張り出して。ひゃー。考えるとぞっとするよ。赤ちゃんの頭が大きすぎる、そうすると鉗子で。

 

このブログでは、乱数に基づいてランダムに『ユリシーズ』読んでいます。第62回と同じところに当たりましたので今回はパスです。

 

                                 

東ドイツの切手ー医療史コレクション(鉗子と検鏡)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stamps_of_Germany_(DDR)_1981,_MiNr_2644.jpg

 

このブログの方法については☞こちら

 

142(U435.2933)

ベロ:(ぶつくさ言いながらあおむけのブルームの顔の上にしゃがみ込む。

第142投。435ページ、2933行目。

 

 BELLO: (Squats with a grunt on Bloom’s upturned face, puffing cigarsmoke, nursing a fat leg.) I see Keating Clay is elected vicechairman of the Richmond asylum and by the by Guinness’s preference shares are at sixteen three quarters. Curse me for a fool that didn’t buy that lot Craig and Gardner told me about. Just my infernal luck, curse it. And that Goddamned outsider Throwaway at twenty to one. (He quenches his cigar angrily on Bloom’s ear.) Where’s that Goddamned cursed ashtray?

 

 BLOOM: (Goaded, buttocksmothered.) O! O! Monsters! Cruel one!

 

ベロ:(ぶつくさ言いながらあおむけのブルームの顔の上にしゃがみ込む。葉巻の煙をぷっと吐き太い脚を撫でて。)ほう、キーティング・クレイがリッチモンド精神病院の副理事長に選任されたって、それはそうと、ギネスの優先株が16ポンドと3/4とな。ひでえドジ踏んだぜ、クレイグ・アンド・ガードナーが勧めてくれたのに買わなかったとは。死ぬほどツイてねえ、まったく。それであのくそったれ穴馬のスローアウェイが20倍だって。(怒りにまかせて葉巻をブルームの耳でもみ消す)くそひでえ灰皿はどこへいった。

 

 ブルーム:(ねじ込まれ、尻敷かれて)おお、おお、鬼、ひどい人。

 

 

第15章。娼館の女主人ベラ・コーエンが、男性化し、ベロとなり、女性化したブルームを責め立てている幻想場面。

 

 

リッチモンド精神病院

ベロは、Licensed Victualler’s Gazette という冊子を読んでいる。(U434.2898)  "licensed victualler"とは英国で、酒類を販売する免許を有する飲食店という意味。Licensed Victualler’s Gazette というのは検索しても見つけられなかったが Licensed Victuallers’ Guardian というのはあった。「酒類販売公認業者ガーディアン」 Licensed Victuallers’ Guardian は1866年創刊の酒類販売免許業者協会が発行する業者向けのコミュニケーション紙で、毎土曜に発行され、1部2ペンスだったとのこと。

 

 Licensed Victualler’s Gazette は、こういった類のものだろう。

 

 

キーティング・クレイ(Keating Clay)は、Lesser-Known Writersというブログ

 

によれば、Keating Clay という作家の父でダブリンの事務弁護士 Robert Keating Clay (1835-1904) のことのようだ。

 

リッチモンド精神病院 "Richmond asylum" は、そもそも1815年にアイルランド全島から治療可能な精神病患者を受け入れる国立精神病院として建設された施設で、1830年にはリッチモンド地区精神病院と改名。1925年にははグランジゴーマン精神病院、1958年には聖ブレンダン病院と呼ばれる。1980年代後半に、病院は縮小期に入り、古い施設は2010年11月に閉鎖された。現在はフェニックス・ケア・センターとして近代的な精神医療施設の敷地となっている。

 

リッチモンド精神病院の廃墟

"THE RICHMOND LUNATIC ASYLUM [LOWER HOUSE]-137258" by infomatique is licensed under CC BY-SA 2.0.

 

ギネス醸造

 

ギネス社は、18世紀からダブリンでビールの醸造を始めているが、1886年に株式公開企業となり、その株式はロンドンの取引所で取引された。

 

ベロが見ているのがいつ発行された優先株のことかわからないが、1889年に発行された6%優先株の画像をみることができる。

 

Arthur Guinness Son & Co. Limited, 6% Preference Stock, issued 5. November 1889

File:Arthur Guinness Son & Co 1889.jpg - Wikimedia Commons

 

クレイグ・アンド・ガードナーとはダブリンの会計事務所。アイルランドの著名な会計士のロバート・ガードナー卿(Sir Rober Gardner, 1838年 - 1920年)が、1866年にウィリアム・G・クレイグ(William G. Craig)とクレイグ・ガードナー事務所を設立。なお同事務所は現在はプライスウォーターハウスグループに吸収されている。

 

スロウアウェイ

 

さて、スロウアウェイ。

 

”throw away”は「捨てる」という意味だが、競馬馬の名前が「スロウアウェイ」"Throwaway" であったことから起こる混乱がこの小説の描く一日の大きな事件となっている。

 

スロウアウェイという競馬馬の名前(馬のテーマ)がこの小説の全体(ブルーム系の章)を転々と流通していくが、第122回でまとめたように、口蹄疫の話題(牛のテーマ)が、スティーヴン系の章を中心に、転々と流通していくのと対なしているように思う。スロウアウェイの関連をざっと眺めてみましょう。

 

この日(1904年6月16日)、ロンドンのアスコット競馬場では恒例の金杯レース(Gold Cup)が開催された。ロンドン時間で午後3時出走。スロウアウェイはノーマークの穴馬だった。

 

第5章

 

街角でブルーム氏は知人のバンタム・ライアンズに出会う。ライアンズは競馬の記事を見たくて、ブルーム氏が持っていた『フリーマン』紙を見せてほしいという。ブルーム氏はもうこれは捨てるつもりなんだ(throw it away)と手渡す。ライアンズはブルーム氏が勝ち馬の名前(Throwaway)を知っていて裏情報を教えてくれたと誤解する。

 

第7章

 

新聞社にて。競馬の予想屋もやっているレネハンは金杯レースの本命はセプター(Sceptre)と皆に話す。

 

第8章

 

デイヴィ―・バーンの店に来たノージー・フリン、店主にジンファンデル(Zinfandel)が本命と店主に語る。店主は競馬はやらない口。(ブログの第42回

 

客のパディ・レナードがフリンに、バンタム・ライアンズがブルーム氏から勝ち馬情報を仕入れたという話を語る。この情報はまたたく間に町中に広まったと考えられる。

 

第10章

 

レネハンとマッコイが賭け屋のライナムに寄る。(ブログの第9回)レネハンはもちろんセプターを買っている。レネハンはそこでライアンズに会い、ライアンズの賭ける馬をスロウアウェイからセプターに乗り変えさせる。

 

第11章

 

オーモンドホテルのレストラン。レネハンの情報で、ブルーム氏の妻の愛人、ボイランもセプターに賭けていることがわかる。モリーと自分の分で2ポンド買っていることが次の章で分かる。

 

次章までの間にレースが行われていることになる。

 

第12章

 

バーニー・キアナンの店。レネハンが、セプターが敗れ、穴馬のスロウアウェイが勝ったことを嘆く。バーテンのテリーはフリンの情報でジンファンデルを買って半クラウンすっている。

 

レネハンはブルーム氏の裏ネタはスロウアウェイであるとライアンズに聞いて知っていたので、ブルーム氏は大穴を当てたと思っていて、そのことを言いふらす。レネハンはブルーム氏は5シリング分の馬券を買って100シリング得たと思っている。

 

第13章

 

夕刊『イヴニング・テレグラフ』紙には金杯レースの結果が掲載されていること描写される。

 

第14章

 

産科病院にて。レネハンは、医学生のマッデンはセプターに賭けて5シリングすったと皆に語る。彼はスロウアウェイに抜かれたセプターの敗北を嘆く。

 

レネハンはとある情報屋のネタでセプターを買ったという。自分のせいでライアンズは損をしたと語る。

 

ブルーム氏はこの場に居合わせているので、この話を聞いている。もちろんライアンズの誤解のことを彼は知らない。

 

第15章

 

この場面。

 

ブルーム氏は第14章でレネハンの話を聞いているので、勝ち馬が穴馬のスロウアウェイと知っている。だからベロの存在はブルーム氏の幻想であるとしてもおかしくはない。

 

夜の町に馬車で来た葬儀屋のケラハーは、夜警にからまれているブルーム氏にたのまれてブルーム氏のことを夜警に説明する。ケラハーはブルーム氏が大穴の馬券を当てた噂話を知っている。(小説には書かれていないが、大穴で儲けたブルーム氏が夜の町にきていたという話はケラハーを通じて翌日町に広まることになるだろう。)

 

ケラハーが馬車で連れて来た客の一人も競馬で2ポンドすったという。(第124回

 

第16章

 

ブルーム氏とスティーヴンが入った馭者溜まり。テーブルに『イヴニング・テレブラフ』紙がありブルーム氏は、金杯レースの勝者はスロウアウェイとの記事を目にする。1着はスロウアウェイ、2着はジンファンデル、3着はセプター。

 

彼は馬券を買ったわけでもなく、レースに興味もない。

 

競馬の結果を報じる記事はブルーム氏に詳しく読みあげられる。ブルーム氏は第14章で聞いたレネハンの話を想起している。

 

第17章

 

帰宅したブルーム氏は食器棚の上に破った馬券を2枚見つける。ブルーム氏の妻との密会に訪れたボイランが捨てていったものだ。

 

第18章

 

寝床で妻のモリーが、ボイランは今日競馬の結果を知るため夕刊を買いに行って戻ってきてから馬券を破いた、と回想する。

 

   

今日のレースでは、3着となったイギリスの牝馬で卓越した競走馬、セプター(1899年 - 1926年)には立派な画像がある。

File:Sceptre by Emil Adam.jpg - Wikimedia Commons

 

このブログの方法については☞こちら