Ulysses at Random

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をランダムに読んでいくブログです

182 (U35.207) ー 頭骨の隊列

両の足はにわかに堂々としたリズムで

第182投。35ページ、207行目。

 

 His feet marched in sudden proud rhythm over the sand furrows, along by the boulders of the south wall. He stared at them proudly, piled stone mammoth skulls. Gold light on sea, on sand, on boulders. The sun is there, the slender trees, the lemon houses.

 両の足はにわかに堂々としたリズムで砂のわだちを越えて行進しだした。丸石で組まれた南岸壁に沿って。堂々と丸石を睥睨。積まれた石はマンモスの頭蓋。海に、砂に、丸石に注ぐ金の光。太陽はあそこに、細い木々、レモン色の家並。

 

午前11時ごろ、ダブリンの南東サンディマウントの海岸。遠浅の砂浜を歩いているスティーヴンの心中の声。

 

ティーヴンの思考は、詩的言語として周到に書かれていると思う。

"proud" ー "proudly" ー "south" に "au"  の響き。 
"boulders" ー "gold" ー "boulders"に ”ou” の響き。

 

"proud"  と "march" から行軍のイメージを感じる

しかし彼はどうして "proud" に歩くのだろうか。

 

ブログの第161回で見たところでも、彼は "proudly"に歩いていた。その時と同じくやはり彼の友人で同居人のマリガンをまねているのだろうか。彼はマリガンにもらった靴を履いているのだ。

 

なぜリズム”rhythm”なのか。彼は詩を作ろうとリズムをとってるのだ。数ページ前にこうある。

 Rhythm begins, you see. I hear. Acatalectic tetrameter of iambs marching.

(U31.23)

 

”south wall” は、今はダブリン港のグレート・サウス・ウォール(The Great South Wall)と呼ばれる岸壁。プールベグ半島の先端からダブリン湾まで4キロメートル以上伸びている。建設当時は世界最長の防波堤。この防波堤は、ダブリン湾の堆積を防ぐために建設された。1717年に工事が開始され、1795 年に完成した。

 

ティーヴンはいま印のあたりを歩いている。その先にはピジョン ハウス発電所(Pigeon House generating station)があった(印)。小説の現在(1904年)の一年前に稼働している。

Admiralty Chart No 1415 Dublin Bay, Published 1875

 

現在の地図(Google map)と対比してみる。スティーヴンのいる場所(はうめたてられて街の中になっている。

ピジョンハウス発電所は1976年に廃止され、現在は隣に建設されたプールベッグ発電所Poolbeg Generating Station)が稼働している(印)。有名な高い煙突はこの発電所のものである。

 

ティーヴンの眼前には細い木々やレモン色の家並みはないだろう。それらは1年前に留学していたパリの風景の回想だと思う。

 

サンディマウントの砂浜からプールベック発電所を望む

"Sandymount Strand, Perspective 7: Poolbeg 2" by Michael Foley Photography is licensed under CC BY-NC-ND 2.0.

 

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181 (U500.0) ー 白紙

第181投。500ページ。

 

このブログでは、乱数に基づいてランダムに『ユリシーズ』を読んでいます。500ページが当たりましたが、500ページは第16章の手前の白紙のページですので今回はパスです。

 

ヘンリー・ホリデイによるルイス・キャロル『スナーク狩り』(1876)の挿し絵から、『海図』

"The Hunting of the Snark: Plate IV (Ocean-Chart)" by sjrankin is licensed under CC BY-NC 2.0.

180 (U553.355) ー 夜中のココア

ブルームは如何にして異教徒に斎日零食を供したか。

第180投。553ページ、355行目。

 

 How did Bloom prepare a collation for a gentile?

 

 He poured into two teacups two level spoonfuls, four in all, of Epps’s soluble cocoa and proceeded according to the directions for use printed on the label, to each adding after sufficient time for infusion the prescribed ingredients for diffusion in the manner and in the quantity prescribed.

 

 ブルームは如何にして異教徒に斎日零食を供したか。

 

 2個の茶碗にスプーン擦切2杯合計4杯のエップス可溶性ココアを投入、商品標示に印刷の使用説明に従い十分な溶入時間の後、規定の方法と分量に従い規定の溶散成分を添加した。

 

第17章。深夜、ブルーム氏はスティーヴンを自宅に連れて来た。泥酔したスティーヴンにブルーム氏はココアを飲ませようとする。第17章は始めから終わりまで問いと答えの形式により進行するが、ここはその様子を問いと答えで描写している。

 

“gentile”「異邦人」とは、ユダヤ人の父を持つブルーム氏にとって、カトリック教徒に見えるスティーヴンのことを指す。

 

“collation”とは、カトリックで断食日にとることを許される軽食のことをいう。小説の現在は、夜中の0時を過ぎており、1904年6月15日の金曜日なので、金曜は肉を絶つ「魚の日」(ブログの第177回)であることから、こういっているのか。スティーヴンは歯痛のせいか何も食べていないので(第161回)こういっているのかもしれない。

 

infusion” ー  “diffusion” は対句になっている。

infusion” 「溶入」されたのはお湯で、“diffusion” 「溶散」する "ingredients" 「成分」とはクリームのことと思う。

 

この次の問と答えで彼がココアにクリームを入れていることが分かる。これはブログの第61回でみたとおり台所の戸棚にある「アイルランド模範酪農場のクリーム」である。彼が砂糖をいれていないと考えられる理由は後述します。

 

ブルーム氏は、この日、一日の始まりに豚の腎臓のソテーを食べ、一日の終わりにココアを飲む。この特異な食事は読者の印象に残るだろう。ココアとは、特にエップスのココアとはいったいどういう飲料なのか検索してみた。

 

ココア

まずココアの歴史について。以下のWeb記事があり、これに基づいてまとめてみる。

→ 日本チョコレート・ココア協会―チョコレート・ココアの歴史

→ 森永製菓―読むココア

  • 1528年、スペインのコルテス(Hernán Cortés)が現在のメキシコ、当時のアステカ王国で強壮飲料として飲まれていたココアを持ち帰った。カカオ豆を原料にした飲料はヨーロッパに広まった。

  • 1828年、オランダ人ヴァン・ホーテン(van Houten)が、カカオペーストから脂肪分を分離することに成功。その結果水に溶けやすいココアパウダーを製造できるようになった。 

  • 1866年、イギリスのキャドバリー社 (Cadbury) が、続いてイギリスのフライ社 (Fry) がココアの製造販売を開始。

キャドバリーのボーンヴィㇽココア缶

File:Ephemera collection; advertisement for Bournvelle cocoa. Wellcome L0030505.jpg - Wikimedia Commons

 

  • ココアパウダーから派生して固形チョコレートが発明された。1847年、イギリス人ジョセフ・フライ (Joseph Fry) が現在のチョコレートの原型となる固形チョコレートを発明。ココアパウダーと砂糖にココアバター(カカオから抽出された脂肪分)を加えることで常温では固体、口の中で溶ける固形のチョコレートができた。

  • ブログの第104回で見たように、ブルーム氏が第15章で食べるのがフライ社チョコレート。

 

ホメオパシー

次にホメオパシーについて。

 

ホメオパシー(英: homeopathy, homoeopathy、homœopathy)とは、1796年にドイツの医師ザムエル・ハーネマン(Christian Friedrich Samuel Hahnemann 1755 - 1843)が提唱した代替医療である。

 

ホメオパシーは、病気の症状をもたらす原因となる物質(薬物)を少量ごとに、病気に罹患している人体に投与することで、体内の自然治癒力を増大させて、その病気を克服させるという発想の自然療法である。

19世紀は、自然科学と技術の発展による工業化が進み、都市化と大量消費時代をむかえたために、社会生活のありかたが激変していった時代である。そうした社会の変化を衰退とみなした人々にとって、自然療法の登場は近代の発展を否定する妥当な回答だと思われたのだった。

(森貴史『ドイツの自然療法』平凡社新書、2021年)

 

エップス

エップス家は、イギリスにおいて、何人ものホメオパシー医師と薬剤師を輩出した一家。ロンドンで食料品商を営むジョン・エップスの成功が一族の繁栄の基礎を築いた。

 

彼の息子、ジョン・エップス(John Epps 1805–1869)、ジョージ・ナポレオン・エップス(George Napoleon Epps 1815–1874)の2人はホメオパシーの信奉者で著名な医師、ジェームズ・エップス (James Epps 1821-1907) はホメオパシー化学者で、大規模なココア事業の創始者だった。

 

エップスのココアについて。検索すると以下の記事が見つかったのでまとめてみる。

→ Sue Young Histories

→ Lets‘s Look Again

 

  • ジェームズ・エップスは、ココアに西インド諸島産のクズウコン(arrowroot)と砂糖を混ぜてよりおいしいココアを開発した。お湯または牛乳と混ぜてつくるインスタントココアパウダーだった。(砂糖は予め入っているのでブルーム氏は砂糖をいれていないと考えられる。)

  • エップスのココア工場は1839年設立され、同年販売開始された

  • ココアには「ジェームズ・エップス、ホメオパシー化学者、ロンドン」‘James Epps, Homeopathic Chemist, London’ というラベルがはられていた。お茶やコーヒーを制限されている患者のために、また健康に良い飲み物として宣伝された。

 

 

  • エッブス社は1878年までに英国最大のココアパウダー製造会社に成長した。

  • しかし1898年までにティブルズ博士のヴィココア(Dr Tibbles‘ Vi-Cocoa)とラウントリー社(Rowntree)に売上を抜かれる。

  • 小説の現在 (1904年) はこのあたりの時代にあたる。

  • 1926年、ラウントリー社がエップス社を買収しエップス工場は1930年に閉鎖、エップス製品はホワイトフィールズ社(Whitefields)に移管された。

ラウントリーのココア缶

File:Rowntree's Cocoa - TWCMS-G11480 (16692709351).jpg - Wikimedia Commons

 

エップスのココアとは、①アステカからの伝来以来ヨーロッパで飲まれてきた強壮飲料、②伝統医学に対抗する自然療法の観点から健康に良いとされる飲料、という意味を合わせ持つものだっただろう。

 

ブログの第158回でふれたように、20世紀初頭のイギリスにおいて、国民の体力衰退、つまりは国力の衰退が懸念されていた。1904年政府によりにまとめられた「体力衰退に関する部局間委員会報告書」“Report of the Inter-Departmental Committee on Physical Deterioration Fitzroy Report” が参考になる。懸念される衰退の要因として以下が挙げられている。

 

都市化/アルコール依存/人材流出による地方の衰退/出生率の低下/食品の品質/青少年の生活環境の悪化、

 

これに対したいわば「反衰退」の活動に関心が集まっていた。例えば、

 

郊外でのレクレーション/海水浴/自然療法/優生学菜食主義/禁酒・禁カフェイン/清潔・衛生/滋養強壮のための飲食物/運動による体力増強

 

ブルーム氏は、これらすべてではないが「反衰退」の思潮に大きく影響を受けている人物として描かれている。

 

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179 (U634.1190) ー 麗しの地トゥーレーヌ

おお自治とか土地同盟とか彼のたわごとをまにうけたのは

第179投。634ページ、1190行目。

 

O wasnt I the born fool to believe all his blather about home rule and the land league sending me that long strool of a song out of the Huguenots to sing in French to be more classy O beau pays de la Touraine that I never even sang once explaining and rigmaroling about religion and persecution he wont let you enjoy anything naturally then might he as a great favour the very 1st opportunity he got a chance in Brighton square running into my bedroom pretending the ink got on his hands to wash it off with the Albion milk and sulphur soap

 

おお自治とか土地同盟とか彼のたわごとをまにうけたのはばかだったわユグノーのながい歌をおくってきたりしてフランス語で歌うと小じゃれた歌おおうるわしの地トゥーレーヌよいっぺんも歌わなかった宗教だの迫害だのくどくど説明するけどそもそもひとを楽しませるひとではないし思いあまってなのかまさにはじめてのあの日ブライトンスクエアのわたしの家のベッドルームに言いわけを作ってかけ込んできた手についたインクを洗わせてほしいってアルビオンのミルクサルファソープで

 

 

最終章。第18章。ブルーム氏の妻のモリ―の寝床での心中の声。一つの章がピリオドもコンマもない単語の長大な連なり8つでできている。ここはその7つめの一節。モリーはブルーム氏の思い出を回想している。

 

グラッドストン

“Home Rule”とはアイルランド自治法。1801年にイギリスに併合されたアイルランドでは、自治の要求が強まり、アイルランド自治を要求するアイルランド国民党はイギリス議会で一定の勢力を持つようになった。自由党グラッドストンは、国民党の協力得るためもありたびたびアイルランド自治法案を提出。しかしアイルランド支配の維持を主張する保守党の反対により、下院で可決されても上院で否決されることが続いた。

 

“Land Reague” は土地同盟。イギリス人の地主制の廃止と土地国有化を主張し1879年結成されたアイルランド政治結社グラッドストン自由党内閣は「アイルランド土地法」を制定し、問題の解決をはかったが農民の不満は解消できず、イギリス人地主と小作人の対立は激化し、アイルランド各地で両者が衝突する「土地戦争」(1880~83)に発展。農民運動を指導した国民党のパーネルらも投獄され、イギリスの弾圧により、運動は退潮した。

 

この小説の他の箇所でわかるのだが、ブルーム氏はグラッドストンを支持し、彼と対立したチェンバレンに反発している。

 

ユグノー教徒』

『ユグノー教徒』Les Huguenots)は、ユダヤ系のドイツ人、ジャコモ・マイアベーアGiacomo Meyerbeer, 1791 - 1864)作曲のオペラ。1836年パリ・オペラ座で初演。フランスでのカトリックカルヴァン派宗教戦争中に起きた、1572年8月の「聖バルテルミの虐殺」を題材にしたオペラで、ブルーム氏が宗教とか弾圧とかいうのはこのことに関係しているのだろう。

 

ユグノー教徒』はブルーム氏の好きな曲だが、彼はその作曲家をマイアベーアではなくメルカダンテと勘違いしているらしい。そのことはブログの第79回でふれた。

 

“O beau pays de la Touraine”は『おお麗しの地トゥーレーヌよ!』(Oh, Beautiful Province of Touraine!) 第2幕でナヴァールのマルグリット王妃が歌うアリア。

→ ♪ TouTube

 

ブライトン・スクエア

ブライトン・スクエア “Brighton Square”  はダブリンの南西のはずれにある地名。この一節からすると、モリーはブルーム氏と結婚するまえここに住んでいたようだ。モリーとブルーム氏が初めて会ったのは、ドルフィンズ・バーンのルーク・ドイルの家であることはこの小説に度々でてくる。そのころモリーはリホボス・テラス(Rehoboth terrace)に住んでいた。(ブログの第106回

 

そのことからモリーはリホボス・テラスからブライトン・スクエアに引っ越したのではないかと思う。ここで初めての機会 ”1st opportunity”というのはブルーム氏が初めて彼女の家に行った日ということではないか。

 

ブライトン・スクエア

リホボス・テラス

ルーク‣ドイルの家

Eason's new plan of Dublin and suburbs / Eason & Son, Ltd.(1908)

 

ちなみに、この小説の作者であるジェイムズ・ジョイスは、ブライトン・スクエア41番地(41 Brighton Square)で生まれている。とすると、この小説の主人公で作者の分身であるスティーヴンがこにで生まれたとの設定であることが考えらる。そうするとモリーとスティーヴンのデッダラス家は近所だったということになる。

 

ジェイムズ・ジョイスの生家

"James Joyce birthplace" by Socialscale is licensed under CC BY-NC-SA 2.0.

 

アルビオン石鹸

”Albion milk and sulphur soap” について。検索すると、1959 年の石鹸製造業者のリストに Albion Soap Company がある。その商品名にAlbion milk and sulphur soapとあるからこの会社の製品だろう。

→ Grace's Guide To British Industrial History

 

Albion Soap Company, The, Limited, 30-32 Thames Street, Hampton, Middlesex. Telephone: Molesey 62. Passenger and goods station: Hampton. — Albion milk and sulphur soap, Simple complexion soap, pale and carbolic household soaps, shaving soap, soft and liquid soap, soap powder and flakes. See also Chemical section.

 

Albion Soap Company は現在も、イギリスを本拠とする医療機器多国籍企業 Smith & Nephew plc の子会社として存在するようだ。

→ US Securities and Exchange Commission

 

ブルーム氏は、第3の踊り場で見たように、今日一日石鹸を持ち歩いている。とかく石鹸の好きな人なのだ。

 

ウジェーヌ・デュ・ファジェによる『ユグノー』の衣装デザイン - マルグリット役のジュリー・ドリュ・グラ(左)、ラウル役のアドルフ・ヌーリ(中)、ヴァランティーヌ役のコルネリー・ファルコン  

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eug%C3%A8ne_Du_Faget_-_Costume_designs_for_Les_Huguenots_-_2._Julie_Dorus-Gras_as_Marguerite,_Adolphe_Nourrit_as_Raoul,_and_Corn%C3%A9lie_Falcon_as_Valentine_-_Original.jpg

 

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178 (U200.882) ー 神父の口髭

―やあサイモン。ファーザー・カウリーが言った。最近どうしてる。

 

第178投。200ページ、882行目。

 

*    *    *

 

 —Hello, Simon, Father Cowley said. How are things?

 

 —Hello, Bob, old man, Mr Dedalus answered, stopping.

 

 They clasped hands loudly outside Reddy and Daughter’s. Father Cowley brushed his moustache often downward with a scooping hand.

 

 —What’s the best news? Mr Dedalus said.

 

 —Why then not much, Father Cowley said. I’m barricaded up, Simon, with two men prowling around the house trying to effect an entrance.

 

 

*    *    *

 

 ―やあサイモン。ファーザー・カウリーが言った。最近どうしてる。

 

 ―やあボブ親父。デッダラス氏は応えて立ち止まった。

 

 レッディ・アンド・ドーターの店の前でふたりは大げさに握手した。ファーザー・カウリーは口髭をくぼめた手でしきりに撫でつけた。

 

 ―景気はどうだい、とデッダラス氏。

 

 ―どうもこうもないさ、とファーザー・カウリー。家から締め出されてるんだぜ。2人組が踏み込もうって家の前をうろついてるんだ。

 

 

第10章は、19個の断章で構成されていて、ダブリンのさまざまな場面が描かれる。ここはその第14番目の断章の冒頭。「 *    *    * 」は断章の切れ目を示している。

 

この小説の主人公のスティーヴンの父親のサイモンが、ボブ・カウリーに出会ったところ。レッディ・アンド・ドーターの店(Reddy and Daughter’s)とは、骨董店で、ロウア―・オーモンド河岸通(Ormond Quay Lower)りとスィフツ小路(Swift’s Row)の角にあった。

 

レッディ・アンド・ドーター骨董店

副執行官の事務所

オーモンドホテル

 

OS 1912 6-inch Map 

 

レッディ・アンド・ドーターのあった場所は現在カフェ(Cafe La Bella)になっている

 

 

さて、カウリー氏(Father Cowley)の問題。"Father" と言えば神父なので、集英社版の和訳の注釈を見て、落ちぶれた神父さんなのかと思っていたのだが、考えてみると小説からは神父かどうかは分からない。神父は口髭を禁じされているとの説もあるが、検索したが定かなことは分からなかった。

 

サイモンがカウリーのことを “old man” と呼ぶのがヒントになっているように思う。  “old man”とは、検索してみると、「ねえ君,おい,なあ」といった親愛の呼び掛けであり。「亭主、おやじ、親方、大将、ボス」といった意味もある。彼はなにか親分肌の人なのか、あるいは年配に見える人なのではないだろうか。それでファーザーとのあだ名を戴いているのではないか。

 

この断章の後半によると、彼はヒュー・ラヴ師(The reverend Hugh C. Love)から家を借りている。ラヴ氏は、ブログの第50回でみたように、ネッド・ランバート穀物倉庫を見学に来たプロテスタントの聖職者である。

 

カトリックの神父だったらプロテスタントの大家の家に住むだろうか。いや神父が住んでいるから面白いのかもしれない。

 

彼は高利貸しのルーベン・ドッドに借金しており、借金取りに家を見張られている。

 

カウリー氏は弁護士のベン・ドラードとここで待ち合わせしており、その後、副執行官のロング・ジョン・ファニングの事務所に行って借金取りを何とかしてもらおうとしている。副執行官については第45回でふれた。

 

彼はその後、ベン・ドラードと共に、オーモンドホテルにやってきてドラードの歌のピアノ伴奏をすることになる、

 

ヴィクトリア朝時代の付け髭の広告

 

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177 (U251.509) ー 金曜日のニシン

あいつらがシティー・アームズをねぐらにしてた頃

第177投。251ページ、509行目。

 

Time they were stopping up in the City Arms pisser Burke told me there was an old one there with a cracked loodheramaun of a nephew and Bloom trying to get the soft side of her doing the mollycoddle playing bézique to come in for a bit of the wampum in her will and not eating meat of a Friday because the old one was always thumping her craw and taking the lout out for a walk. And one time he led him the rounds of Dublin and, by the holy farmer, he never cried crack till he brought him home as drunk as a boiled owl and he said he did it to teach him the evils of alcohol and by herrings, if the three women didn’t near roast him, it’s a queer story, the old one, Bloom’s wife and Mrs O’Dowd that kept the hotel.

 

あいつらがシティー・アームズをねぐらにしてた頃、飛ばし屋バークから聞いたんだけど、あそこに婆さんが阿呆でぐうたらの甥っこと住んでいて、ブルームは婆さんの気いられようってんで猫かわいがりにベジークで遊んでやったり、遺言でお宝の一つや二つでもせしめようと、婆さん寝ても覚めても神様漬けだから、金曜には肉絶ちをしたり、まぬけを表に連れてやったりしたもんだ。ブルームはある日やつとダブリン中を飲みまわってあきれた話だがそいつが一向に音を上げないんで家に連れて帰ってきたときには大虎に酔いつぶれていたとか、ブルームはアルコールの害を教え込むためだったっていうんだが、それで婆さんとかみさんと大家のオダウドの3人にとっちめられなかったとすりゃあベラ棒な話よ。

 

 

第12章.バーニー・キアナンの酒場。店には、語り手、ジョウ・ハインズ、「市民」というあだ名の民族主義者、小説の主人公であるブルーム氏、その他の客がいて会話をしている。

 

この一節は、語り手がブルーム夫妻をことをこき下ろしているその内心の声。この正体不明の語り手はアイルランドの俗語の達者な使い手で、辞書を調べても何を言っているのか意味が分かりにくい。

 

リオーダン夫人

 

語り手が「あいつら」というのはブルーム夫妻のことで、夫妻は1893年かシ94年までシティー・アームズ・ホテルに住んでいた。そのことはブログの第99回で触れました。

 

シティ・アームズに住んでいた老人とはリオーダン夫人(Mrs Riordan)。この人はこの小説の主人公のブルーム氏とスティーヴンの双方に縁のある人物で、第17章にその記述がある。リオーダンは1888年から91年までスティーヴンの両親の家に同居していた。

 

Mrs Riordan (Dante), a widow of independent means, had resided in the house of Stephen’s parents from 1 September 1888 to 29 December 1891 and had also resided during the years 1892, 1893 and 1894 in the City Arms Hotel owned by Elizabeth O’Dowd of 54 Prussia street where, during parts of the years 1893 and 1894, she had been a constant informant of Bloom who resided also in the same hotel・・・

(U556.479)

 

バーク(Burle)というのは、語り手の知り合いでシティー・アームに住んでいた男だろう。第18章でブルーム氏の妻、モリーは、シティ・アームズ・ホテルのバークが2人を監視していたことを想起している。

 

・・・Burke out of the City Arms hotel was there spying around as usual on the slip always where he wasnt wanted if there was a row・・・

(U629.965)

 

“loodheramaun” は アイルランドで “A big, lazy man; a loafer”(でくの坊、のらくら者)の意とのこと。

 

“mollycoddle” は「過保護によって男の子を甘やかす,大事にしすぎる」との意。.

 

“bezique”「ベジーク」とは「2 人または4 人がトランプの 64 枚の札でするゲーム」。

 

“wampum” 「ワムパム」は、貝殻を原料とする円筒形のビーズのことで、北米先住民族は、このビーズを使って装身具・契約の印の帯などを作ったという。17世紀には貨幣としても使われた。ここでは、ここでは「お金」の意味で使われているのかと思う。

 

ペノブスコット族のワバナキ・ワムパム・ベルト

File:Wabanaki Wampum Belts.png - Wikimedia Commons

 

「金曜日に肉を食わない」というのは、カトリックの国で金曜日を「魚の日」(Fish day)と呼び、獣肉を断ち魚肉を食べる習慣があることによる。

 

“thumping her craw” とは何だろう。検索すると ”crawthumper” という言葉があってアイルランドで ”an ostentatiously pious person”「仰々しく敬虔な人」という意味という。胸(craw)を打つ(thump)のが敬虔を示す動作だからだという。

 

“by the holy farmer” は辞書に載っていない。「なんてこった」くらいの間投詞だと思う。

 

“by herrings”、も同じくわからない。おそらく上に同じだろう。ニシン(herring)というのはさっきの「魚の日」にからめているのだと思う。

 

ニシン

 

この小説『ユリシーズ』によく出てくる魚は、タラ(cod)とニシン(herring)とサバ(mackerel)である。おそらくヨーロッパで古来より馴染みの深いさなかだったからと思う。

 

当時(中世後期)のカトリック教会においては1年のおよそ半分は断食日だった。ところがその断食日には魚を食べることを許されていた。というよりはむしろ、断食日は積極的に魚を食べる日として「魚の日」と呼ばれていた。・・・巨大な経済的需要、そしてそれを支えるための漁業や運送の巨大な経済システム。そのシステムのなかで主要な商品として流通したのがニシンとタラだったのである。

(P.7 越智俊之『増補 魚で始まる世界史』平凡社ライブラリー、2024年)

 

内陸で魚を消費するためには、大量の魚を長期保存する技術を確立する必要があった。ニシンについては塩漬け、酢漬けニシン(salted herring, pickled herring)と燻製ニシン(red herring または kipperd herring)の方法が確立された。

 

塩漬けニシンと玉ねぎのマリネ

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aringa-marinato.jpg

 

燻製ニシンとレモン

この小説の「ニシン」を順に見てみよう。

 

第3章。おじさんのリチー・グールディングの家を訪問することを空想するか回想するスティーヴンの内心の声。リチーはベーコンとニシンの炒め物を勧める。これは燻製ニシンだろう。

The rich of a rasher fried with a herring? Sure? So much the better.

(U33.97)

 

第8章。デイヴィー・バーンの店で食事をするブルーム氏は、主人の顔をニシンのような赤ら顔と描写する。これはもちろんレッドへリングと呼ばれる燻製ニシン。

Davy Byrne came forward from the hindbar in tuckstitched shirtsleeves, cleaning his lips with two wipes of his napkin. Herring's blush.

(U142.810)

 

第8章。食事の後、ブルーム氏は目の不自由な若者が道を渡るのを助ける。前回のブログで見た、オーモンドホテルのピアノを調律した調律師だ。彼はヘリンボーン柄のツイードを着ている。

Mr Bloom walked behind the eyeless feet, a flatcut suit of herringbone tweed. Poor young fellow!

(U148.1106)

 

ヘリンボーン(herringbone)は、模様の一種。開きにした魚の骨に似る形状からニシン (herring) の骨 (bone) という意味をもつ。

 

ヘリンボーン柄のジャケット

File:Winter Coat - Herringbone (51011161330).jpg - Wikimedia Commons

 

第9章。スティーヴンは図書館でシェイクスピアについての自説をのべている。シェイクスピアの芸術は貴族のものではなかったが、裕福な男が書いたものだと言って、「ニシンパイ」など、当時のご馳走を列挙している。ブログの第120回の直後の所。

His art, more than the art of feudalism as Walt Whitman called it, is the art of surfeit. Hot herringpies, green mugs of sack, honeysauces, sugar of roses, marchpane, gooseberried pigeons, ringocandies.

(U165.627)

 

第12章。地の文に度々差しはさまれるパロディ断章の一節。アイルランドの海産物の富を美文調で列挙する。そのなかにニシンが出てくる。

・・・as for example golden ingots, silvery fishes, crans of herrings, drafts of eels, codlings, creels of fingerlings, purple seagems and playful insects.

(U242.81)

 

なぜここで海産物の羅列がでてくるのか。この章の語り手は今、ハインズと裁判所の裏を南下しているらしく、その先にはダブリン市の魚市場と野菜果実市場があるからだろう。市場の位置はブログの第24回を参照。

 

 第12章。今回の個所。

 

同じく第12章。バーニーキアナンの酒場で「市民」と呼ばれる男が、得体のしれない男の妻は不幸だという。得体のしれないとは、ブリーン氏のことであり、ユダヤ人の息子のブルーム氏のことでもあるようだ。”neither fish, flesh, fowl, nor good red herring” という不思議なフレーズは ”half and half” とおなじく「得体のしれない」との意味だとか。

―Pity about her, says the citizen. Or any other woman marries a half and half.

―How half and half? says Bloom. Do you mean he ...

Half and half I mean, says the citizen. A fellow that's neither fish nor flesh.

Nor good red herring, says Joe.

(U263.1057)

 

第13章。浜辺で夢想するブルーム氏。月経の女性は匂いで警告する、傷んだ瓶詰ニシンの匂いがする、と考えている。

Some women, instance, warn you off when they have their period. Come near. Then get a hogo you could hang your hat on. Like what? Potted herrings gone stale or.

(U307.133)

 

瓶詰ニシンの瓶とは下のような陶器のジャーと思う。当時(1904年)にはまだガラス瓶は普及していなかっただろうから。「ブローター」”Bloater paste” は燻製ニシンのペースト。

 

 

第13章。ブルーム氏は、娘と蒸気船エリン・キングズ号に乗って、キッシュの灯台船まで行ったことを思い出している。乗員が船酔いで吐いたものがニシンの餌になると考えている。

Drunkards out to shake up their livers. Puking overboard to feed the herrings. Nausea.

(U310.1187)

 

第15章。幻想場面に登場するリチ―・グールディング。鞄をあけると燻製ニシンがある。①の第3章の場面と通じているのだろう。

・・・He opens it and shows it full of polonies, kippered herrings, Findon haddies and tightpacked pills.)

(U365.503)

 

第16章.馭者溜りのほうへ向かうブルーム氏とスティーヴン。スティーヴンは実家を離れる直前の台所の光景を思い出している。兄と妹の食事は2匹1ペニーの金曜日のニシン。

・・・Trinidad shell cocoa that was in the sootcoated kettle to be done so that she and he could drink it with the oatmealwater for milk after the Friday herrings they had eaten at two a penny・・・

(U507.273)

 

第16章。ブルーム氏は馭者溜りからスティーヴンを家に連れて帰ろうと考える。妻には叱られそうだがスティーヴンの話題で気をそらすことが出ると考える。

・・・by the way no harm, to trail the conversation in the direction of that particular red herring just to.

(U538.1661)

 

「燻製ニシン」 ”red herring"には「人の注意を他へそらすもの、人を惑わすような情報」との意味がある。 キツネ狩りの猟犬に他のにおいとかぎ分けさせる訓練に燻製ニシンを用いることからというのが由来。

 

以上からニシンには以下の文化的意味合いがあるといえる。

  • 欧州海洋国家における重要な海産資源
  • 古来キリスト教の断食日に食された主要な食物
  • ルネサンスの時代においては裕福な階層も食べたご馳走
  • 20世紀の初頭においては安価な庶民の食料
  • 塩漬け酢漬けまたは燻製による保存食
  • 痛みやすく悪臭を放つ食品

 

ニシンの挿絵(マルクス・エリーザー・ブロッホ『自然史:魚類の一般と特殊』)

"1. Herring (Clupea Harengus) 2. Sprat (Clupea Sprattus) from Ichtylogie, ou Histoire naturelle: génerale et particuliére des poissons (1785–1797) by Marcus Elieser Bloch. Original from New York Public Library. Digitally enhanced by rawpixel." by Free Public Domain Illustrations by rawpixel is licensed under CC BY 2.0.

 

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176 (U217.315)  ー 音叉の忘れ物

眠気を誘う静けさのなか、ゴールドはページに目を落とした。

第176投。217ページ、315行目。

 

 

 In drowsy silence gold bent on her page.

 

 From the saloon a call came, long in dying. That was a tuningfork the tuner had that he forgot that he now struck. A call again. That he now poised that it now throbbed. You hear? It throbbed, pure, purer, softly and softlier, its buzzing prongs. Longer in dying call.

 

 Pat paid for diner’s popcorked bottle: and over tumbler, tray and popcorked bottle ere he went he whispered, bald and bothered, with miss Douce.

 

 眠気を誘う静けさのなか、ゴールドはページに目を落とした。

 

 サルーンから声音が聞こえた。漸次減衰。それは音叉、調律師のを、忘れていったのを、鳴らした。再び声音。宙にかかげたのが震えた。聞こえるかい。震えた。純粋、純乎、軽軽、静静。蜂鳴の枝。漸漸減衰する声音。

 

 パットはポンと抜いたボトルのお代を徴収。光頭の面倒はタンブラーと盆とポンと抜いた瓶越しに去り際にドゥースに囁いた。

 

第11章。オーモンド・ホテルのバー。金髪のミス・ドゥースとブロンズの髪のミス・ケネディがカウンターで給仕をしている。

 

ミス・ドゥースは本を読んでいるらしい。

 

バーの奥はサルーン(広間)になっていてピアノが置いてある。先ほど盲目の若い調律師が来てピアノを調律した。サルーンで開催されるスモーキング・コンサートのためだ。

 

スモーキング・コンサート(smorking concert)とは、ヴィクトリア朝時代に流行した、男性の聴衆を前にした音楽会のこと。聴衆は生演奏を聴きながらタバコを吸い、政治の話をした。こうした集まりは、ホテルで開かれることもよくあった。

 

 —The tuner was in today, miss Douce replied, tuning it for the smoking concert and I never heard such an exquisite player.

 —Is that a fact?

 —Didn’t he, miss Kennedy? The real classical, you know. And blind too, poor fellow. Not twenty I’m sure he was.

(U216,277-)

 

調律師は大事な音叉を忘れていったらしい。今ピアノのところにいて音叉を鳴らしているのは、この小説の主人公スティーヴンの父のサイモン。

 

一方、給仕のパットは耳が不自由。そのパットが女給に囁くというも不思議だ。

 

音叉(バルセロナ市立音楽博物館蔵)

"Diapasó" by Patian is licensed under CC BY-SA 3.0.

 

今回は、オーモンド・ホテルについて検索してみた。

 

The Irish Times の記事が見つかった。

→ New application to demolish Dublin’s Ormond Hotel

→ Judge rejects claims against developers of the Ormond Hotel on Dublin quays

 

まとめると以下の通り

  • オーモンド・ホテルは、1889年に開業した。

  • ホテルの建物は1840 年頃のもので当初はアッパー・オーモンド 河岸8 番地だったが、20世紀の変わり目頃に 9 番地まで拡張された。(筆者メモ:小説の現在1904年はこの時代に当たる。バーとサルーンは8番地の建物にあったと考えられる。)

  • 1933 年までに 10 番地と 11 番地まで拡張され、1970 年代に 7 番地に拡張された。それ以降拡張は行われていない。つまりホテルは7番地から11番地を占めていた。

      在りし日のオーモンド・ホテル 左端が11番地、右端が7番地になる


  • ホテルは2005年に廃業。1年後の2006年に開発業者バーナード・マクナマラ氏(Bernard McNamara)に1700万ユーロで買収された。

  • 同氏は2009年に700万ユーロの価格で物件を売り出した。その後、エアアジアAir Asia)の社長でありサッカークラブのオーナーでもあるトニー・フェルナンデス氏(Tonny Fernandes)が所有するモンテコ・ホールディングス社(Monteco Holdings)が少なくとも250万ユーロで購入した。

  • 2013年、モンテコはホテルを解体し、170室の6階建てのホテルに建て替える許可を申請した。

  • 2017年、市議会は、『ユリシーズ』の舞台という、ホテルの文学遺産的意義を重視し、新しいホテルが「オーモンド・ ホテル」として運営されることを条件に許可を与えた。

  • ところが、新ホテルの敷地の隣地でバゴッツ・ハットン・レストラン(The Bagots Hutton restaurant)を営業するアーバン・エンターテインメント社(Urban Entertainment Ltd)は、オーモンドホテルの再開発工事が都市計画法に違反しているとして、解体工事の禁止を含む命令を裁判所に求め提訴した。

  • 2019年、高等裁判所は、アーバン・エンターテインメント社の主張を却下した。

Google mapで見てみると2017年5月までは建物があったが、2018年にはホテルは解体されている。しかし7番地の建物は解体されずに残っている。現在も何らかの事情で建設は進んでいないようだ。

 

Google Map 2022年9月のストリート・ビュー

 

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