あいつらがシティー・アームズをねぐらにしてた頃
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Time they were stopping up in the City Arms pisser Burke told me there was an old one there with a cracked loodheramaun of a nephew and Bloom trying to get the soft side of her doing the mollycoddle playing bézique to come in for a bit of the wampum in her will and not eating meat of a Friday because the old one was always thumping her craw and taking the lout out for a walk. And one time he led him the rounds of Dublin and, by the holy farmer, he never cried crack till he brought him home as drunk as a boiled owl and he said he did it to teach him the evils of alcohol and by herrings, if the three women didn’t near roast him, it’s a queer story, the old one, Bloom’s wife and Mrs O’Dowd that kept the hotel.
あいつらがシティー・アームズをねぐらにしてた頃、飛ばし屋バークから聞いたんだけど、あそこに婆さんが阿呆でぐうたらの甥っこと住んでいて、ブルームは婆さんの気いられようってんで猫かわいがりにベジークで遊んでやったり、遺言でお宝の一つや二つでもせしめようと、婆さん寝ても覚めても神様漬けだから、金曜には肉絶ちをしたり、まぬけを表に連れてやったりしたもんだ。ブルームはある日やつとダブリン中を飲みまわってあきれた話だがそいつが一向に音を上げないんで家に連れて帰ってきたときには大虎に酔いつぶれていたとか、ブルームはアルコールの害を教え込むためだったっていうんだが、それで婆さんとかみさんと大家のオダウドの3人にとっちめられなかったとすりゃあベラ棒な話よ。
第12章.バーニー・キアナンの酒場。店には、語り手、ジョウ・ハインズ、「市民」というあだ名の民族主義者、小説の主人公であるブルーム氏、その他の客がいて会話をしている。
この一節は、語り手がブルーム夫妻をことをこき下ろしているその内心の声。この正体不明の語り手はアイルランドの俗語の達者な使い手で、辞書を調べても何を言っているのか意味が分かりにくい。
リオーダン夫人
語り手が「あいつら」というのはブルーム夫妻のことで、夫妻は1893年かシ94年までシティー・アームズ・ホテルに住んでいた。そのことはブログの第99回で触れました。
シティ・アームズに住んでいた老人とはリオーダン夫人(Mrs Riordan)。この人はこの小説の主人公のブルーム氏とスティーヴンの双方に縁のある人物で、第17章にその記述がある。リオーダンは1888年から91年までスティーヴンの両親の家に同居していた。
Mrs Riordan (Dante), a widow of independent means, had resided in the house of Stephen’s parents from 1 September 1888 to 29 December 1891 and had also resided during the years 1892, 1893 and 1894 in the City Arms Hotel owned by Elizabeth O’Dowd of 54 Prussia street where, during parts of the years 1893 and 1894, she had been a constant informant of Bloom who resided also in the same hotel・・・
(U556.479)
バーク(Burle)というのは、語り手の知り合いでシティー・アームに住んでいた男だろう。第18章でブルーム氏の妻、モリーは、シティ・アームズ・ホテルのバークが2人を監視していたことを想起している。
・・・Burke out of the City Arms hotel was there spying around as usual on the slip always where he wasnt wanted if there was a row・・・
(U629.965)
“loodheramaun” は アイルランドで “A big, lazy man; a loafer”(でくの坊、のらくら者)の意とのこと。
“mollycoddle” は「過保護によって男の子を甘やかす,大事にしすぎる」との意。.
“bezique”「ベジーク」とは「2 人または4 人がトランプの 64 枚の札でするゲーム」。
“wampum” 「ワムパム」は、貝殻を原料とする円筒形のビーズのことで、北米先住民族は、このビーズを使って装身具・契約の印の帯などを作ったという。17世紀には貨幣としても使われた。ここでは、ここでは「お金」の意味で使われているのかと思う。
ペノブスコット族のワバナキ・ワムパム・ベルト
File:Wabanaki Wampum Belts.png - Wikimedia Commons
「金曜日に肉を食わない」というのは、カトリックの国で金曜日を「魚の日」(Fish day)と呼び、獣肉を断ち魚肉を食べる習慣があることによる。
“thumping her craw” とは何だろう。検索すると ”crawthumper” という言葉があってアイルランドで ”an ostentatiously pious person”「仰々しく敬虔な人」という意味という。胸(craw)を打つ(thump)のが敬虔を示す動作だからだという。
“by the holy farmer” は辞書に載っていない。「なんてこった」くらいの間投詞だと思う。
“by herrings”、も同じくわからない。おそらく上に同じだろう。ニシン(herring)というのはさっきの「魚の日」にからめているのだと思う。
ニシン
この小説『ユリシーズ』によく出てくる魚は、タラ(cod)とニシン(herring)とサバ(mackerel)である。おそらくヨーロッパで古来より馴染みの深いさなかだったからと思う。
当時(中世後期)のカトリック教会においては1年のおよそ半分は断食日だった。ところがその断食日には魚を食べることを許されていた。というよりはむしろ、断食日は積極的に魚を食べる日として「魚の日」と呼ばれていた。・・・巨大な経済的需要、そしてそれを支えるための漁業や運送の巨大な経済システム。そのシステムのなかで主要な商品として流通したのがニシンとタラだったのである。
(P.7 越智俊之『増補 魚で始まる世界史』平凡社ライブラリー、2024年)
内陸で魚を消費するためには、大量の魚を長期保存する技術を確立する必要があった。ニシンについては塩漬け、酢漬けニシン(salted herring, pickled herring)と燻製ニシン(red herring または kipperd herring)の方法が確立された。
塩漬けニシンと玉ねぎのマリネ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aringa-marinato.jpg
燻製ニシンとレモン
この小説の「ニシン」を順に見てみよう。
① 第3章。おじさんのリチー・グールディングの家を訪問することを空想するか回想するスティーヴンの内心の声。リチーはベーコンとニシンの炒め物を勧める。これは燻製ニシンだろう。
The rich of a rasher fried with a herring? Sure? So much the better.
(U33.97)
② 第8章。デイヴィー・バーンの店で食事をするブルーム氏は、主人の顔をニシンのような赤ら顔と描写する。これはもちろんレッドへリングと呼ばれる燻製ニシン。
Davy Byrne came forward from the hindbar in tuckstitched shirtsleeves, cleaning his lips with two wipes of his napkin. Herring's blush.
(U142.810)
③ 第8章。食事の後、ブルーム氏は目の不自由な若者が道を渡るのを助ける。前回のブログで見た、オーモンドホテルのピアノを調律した調律師だ。彼はヘリンボーン柄のツイードを着ている。
Mr Bloom walked behind the eyeless feet, a flatcut suit of herringbone tweed. Poor young fellow!
(U148.1106)
ヘリンボーン(herringbone)は、模様の一種。開きにした魚の骨に似る形状からニシン (herring) の骨 (bone) という意味をもつ。
ヘリンボーン柄のジャケット
File:Winter Coat - Herringbone (51011161330).jpg - Wikimedia Commons
④ 第9章。スティーヴンは図書館でシェイクスピアについての自説をのべている。シェイクスピアの芸術は貴族のものではなかったが、裕福な男が書いたものだと言って、「ニシンパイ」など、当時のご馳走を列挙している。ブログの第120回の直後の所。
His art, more than the art of feudalism as Walt Whitman called it, is the art of surfeit. Hot herringpies, green mugs of sack, honeysauces, sugar of roses, marchpane, gooseberried pigeons, ringocandies.
(U165.627)
⑤ 第12章。地の文に度々差しはさまれるパロディ断章の一節。アイルランドの海産物の富を美文調で列挙する。そのなかにニシンが出てくる。
・・・as for example golden ingots, silvery fishes, crans of herrings, drafts of eels, codlings, creels of fingerlings, purple seagems and playful insects.
(U242.81)
なぜここで海産物の羅列がでてくるのか。この章の語り手は今、ハインズと裁判所の裏を南下しているらしく、その先にはダブリン市の魚市場と野菜果実市場があるからだろう。市場の位置はブログの第24回を参照。
⑥ 第12章。今回の個所。
⑦ 同じく第12章。バーニーキアナンの酒場で「市民」と呼ばれる男が、得体のしれない男の妻は不幸だという。得体のしれないとは、ブリーン氏のことであり、ユダヤ人の息子のブルーム氏のことでもあるようだ。”neither fish, flesh, fowl, nor good red herring” という不思議なフレーズは ”half and half” とおなじく「得体のしれない」との意味だとか。
―Pity about her, says the citizen. Or any other woman marries a half and half.
―How half and half? says Bloom. Do you mean he ...
―Half and half I mean, says the citizen. A fellow that's neither fish nor flesh.
―Nor good red herring, says Joe.
(U263.1057)
⑧ 第13章。浜辺で夢想するブルーム氏。月経の女性は匂いで警告する、傷んだ瓶詰ニシンの匂いがする、と考えている。
Some women, instance, warn you off when they have their period. Come near. Then get a hogo you could hang your hat on. Like what? Potted herrings gone stale or.
(U307.133)
瓶詰ニシンの瓶とは下のような陶器のジャーと思う。当時(1904年)にはまだガラス瓶は普及していなかっただろうから。「ブローター」”Bloater paste” は燻製ニシンのペースト。
⑨ 第13章。ブルーム氏は、娘と蒸気船エリン・キングズ号に乗って、キッシュの灯台船まで行ったことを思い出している。乗員が船酔いで吐いたものがニシンの餌になると考えている。
Drunkards out to shake up their livers. Puking overboard to feed the herrings. Nausea.
(U310.1187)
⑩ 第15章。幻想場面に登場するリチ―・グールディング。鞄をあけると燻製ニシンがある。①の第3章の場面と通じているのだろう。
・・・He opens it and shows it full of polonies, kippered herrings, Findon haddies and tightpacked pills.)
(U365.503)
⑪ 第16章.馭者溜りのほうへ向かうブルーム氏とスティーヴン。スティーヴンは実家を離れる直前の台所の光景を思い出している。兄と妹の食事は2匹1ペニーの金曜日のニシン。
・・・Trinidad shell cocoa that was in the sootcoated kettle to be done so that she and he could drink it with the oatmealwater for milk after the Friday herrings they had eaten at two a penny・・・
(U507.273)
⑫ 第16章。ブルーム氏は馭者溜りからスティーヴンを家に連れて帰ろうと考える。妻には叱られそうだがスティーヴンの話題で気をそらすことが出ると考える。
・・・by the way no harm, to trail the conversation in the direction of that particular red herring just to.
(U538.1661)
「燻製ニシン」 ”red herring"には「人の注意を他へそらすもの、人を惑わすような情報」との意味がある。 キツネ狩りの猟犬に他のにおいとかぎ分けさせる訓練に燻製ニシンを用いることからというのが由来。
以上からニシンには以下の文化的意味合いがあるといえる。
- 欧州海洋国家における重要な海産資源
- 古来キリスト教の断食日に食された主要な食物
- ルネサンスの時代においては裕福な階層も食べたご馳走
- 20世紀の初頭においては安価な庶民の食料
- 塩漬け酢漬けまたは燻製による保存食
- 痛みやすく悪臭を放つ食品
ニシンの挿絵(マルクス・エリーザー・ブロッホ『自然史:魚類の一般と特殊』)
"1. Herring (Clupea Harengus) 2. Sprat (Clupea Sprattus) from Ichtylogie, ou Histoire naturelle: génerale et particuliére des poissons (1785–1797) by Marcus Elieser Bloch. Original from New York Public Library. Digitally enhanced by rawpixel." by Free Public Domain Illustrations by rawpixel is licensed under CC BY 2.0.
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